道三塚

【どうさんづか】

住宅地の一角を占める形の道三塚は、その名の通り、戦国時代に美濃を治めた斎藤道三を祀る塚である。元は、織田信長父子の墓のある崇福寺の近くにあったのだが、長良川の氾濫でたびたび流されるために、天保8年(1837年)に斎藤家の菩提寺の住職がこの地に移転させたものである。その後周辺は住宅地の密集する土地となったが、塚は移転されることなく、崇敬の対象となっている。

一介の商人から身を興して美濃一国の太守となった道三であるが(最近の研究では親子二代の覇業とされる)、その最期はあっけないものであった。

天文23年(1554年)、道三は家督を嫡男の義龍に譲って隠居する。その直後から二人の仲は険悪となり、義絶するに至る。その理由は、義龍は実は実子ではないために道三が廃嫡を考えていたとも、長年にわたる国盗りの強引な手法によって家臣団が強制的に道三を引退させたためとも言われる。いずれにせよ、翌年には義龍は、道三が可愛がっていた弟2人を殺害して、明確に反旗を翻したのである。

そして弘治2年(1556年)、道三と義龍は長良川を挟んで対峙する。その兵の数は、義龍1万7千に対して、道三は3千足らず。多勢に無勢の中で、道三は討ち取られる。かつての太守は、脛を薙ぎ払われた後に首を切り落とされたとされる。その際、複数の者が同時に襲いかかったために一番槍争いが起こり、証拠として鼻をそぎ落とされたともいう。享年63。

<用語解説> 
◆斎藤道三
1494?-1556。“美濃の蝮”と呼ばれ、戦国時代の中でも屈指の梟雄とされる。一代で美濃国を守護・土岐氏から奪取したとされていたが、最近の研究から、親子2代の覇業であると認定されつつある。

◆斎藤義龍
1527-1561。斎藤道三の嫡男。母は側室の三芳野。三芳野は元は道三の主君であった土岐頼芸の愛妾であり、道三に下げ渡されてから1年未満で義龍を産んだため、義龍は道三の実の子ではないという噂が絶えなかった。父の道三からは“無能”と評されていたが、長良川の戦いで父を討ち果たして、完全に領国を支配した。持病があり、急死。

アクセス:岐阜県岐阜市長良福光