音宮神社
【おとみやじんじゃ】
南北朝時代に小豆島を支配していた佐々木(飽浦)信胤の末娘・音姫を祀る神社である。
南朝方の武将として小豆島を押さえていた信胤であったが、貞和3年(1347年)に北朝の細川師氏の総攻撃を受けて、約1ヶ月ほどの抗戦の末に落城となった。一族は散り散りとなり、末娘の音姫も数名の家臣に守られて、島の東へと単独で落ち延びていった。そして堀越村の山中に身を隠したという。
しかし既に島は北朝方の手に落ちており、探索の手は容赦なかった。このまま山中に隠れていてもいずれ敵に見つかるであろうし、そうなれば村にも累が及ぶ。そう思ったのか音姫は自ら命を絶ち、村人は姫の霊を慰めるために宮を建てたのである。
これがいわゆる表向きの創建の由来であるが、事実はもっと陰惨なものであると伝えられている。
堀越村の笹山に身を潜めていた音姫主従であったが、その所在が知れると、堀越の村人によって取り囲まれてしまう。そして恩賞目当てなのか、自分たちに累が及ぶことを怖れたのか、村人は石礫を投げつけて姫達を殺してしまうのである。
その後、堀越村では姫の霊を祀ったようであるが、それだけで霊は鎮まることはなかった。それからしばらくして堀越村に疫病が起こった。村人は近隣に助けを求めたが、業病ゆえに関わりあいになることを拒まれて見放され、ついには村人全員が死に絶え、村そのものが消滅してしまったのである。これを人々は音姫の祟りであると信じ、村に残された音姫の祠だけが隣の古江に移され、丁重に祀られた。その後200年ほど経って、堀越村のあった地に入植する一族が現れ、ようやく集落が甦ったという。しかし音姫の宮は堀越に戻ることなく、古江の浜に今も鎮座している。
<用語解説>
◆佐々木(飽浦)信胤
生没年不詳。元は備前国児島郡飽浦の住人であり、細川氏の部将として足利尊氏についていた。しかし女性を巡るいさかいから南朝方に離反し、小豆島を本拠とする。貞和3年の細川氏侵攻の際に討死したとの伝説もあるが、康安2年(1362年)の細川一族同士の合戦に参加したとの記録も残る。
アクセス:香川県小豆郡小豆島町古江