若胡子屋跡

【わかえびすやあと】

瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の東端にある御手洗は、かつて西国大名の参勤交代から西回り航路の廻船までが風待ち・潮待ちをする港町として栄えた。今でこそ鄙びた風景であるが、その歴史を感じさせる町並みは、重要伝統的建造物群保存地区として指定されている。

その建物の中でもひときわ立派なものが、若胡子屋という待合茶屋の跡である。主屋の梁に屋久杉を使うなどの贅をこらした店構えもさることながら、最盛期には遊女や芸妓を100名以上抱えていたという繁盛ぶりであったと言われる。現在では御手洗地区の資料館のような扱いとなっており、中を自由に見学できる。その建物の片隅、おそらく店の正面からは見えないような位置に、狭い階段が取り付けられている。これを上ったところは、店に出る女達の控えの間であったとされる。そしてこの部屋の壁の一部だけは、若胡子屋が営まれていた頃のまま残されている。

……ある時、一人の花魁が店に出る準備をするために、この部屋で身繕いをしていた。お付きの禿(かむろ)がお歯黒の鉄漿を用意する。ところが、今日に限って上手く付けることが出来ない。そのうち座敷からは呼び出しが掛かる。焦れば焦るほど、さらにお歯黒は上手くいかない。遂に苛立ちを爆発させた花魁は何を思ったのか、いきなり煮立った鉄漿を、そばに控えていた禿の口に注ぎ込んだのである。

どす黒い血を吐き出し、のたうち回る禿。焼けただれた喉から声にならない悲鳴を絞り出しながら、血まみれの手を壁に這わせて立とうとするが、やがて力尽きてその場で事切れてしまった。結局、花魁はお咎めなし、小さな骸だけが夜陰に紛れて店の外に運び出されただけであった。

ところが次の日から、その花魁が部屋で支度をして鏡の前に立つと、死んだ禿の姿が映り込むようになる。さらに「お歯黒つけなんしたか」という禿の声を聞くに至り、花魁は店を出て、四国八十八箇所巡りをして禿の霊を慰めたという。……

この“女郎鉄漿事件”の舞台が、この若胡子屋の2階の部屋であり、不自然な形で昔の壁面が残されている部分には、死んだ禿が付けた血染めの手形がうっすらと見えるという。さらにがらんとした部屋の隅には、禿の霊が映し出されたという鏡が置かれている。

若胡子屋の裏庭には、なぜか一基だけ墓石がある。八重紫と墓石に刻まれているが、この八重紫こそが、上の事件を起こした花魁であるとまことしやかに伝えられている。

<用語解説>
◆若胡子屋
享保9年(1724年)に、広島藩より茶屋の営業許可を受ける。現在の建物はこの時期に出来たものとされる。明治になって、回船業の衰退と共に廃業となった。
また若胡子屋には、店の抱える遊女は99名が上限で、新しく1名増えると、必ず店の遊女が1名死んで99名となってしまうという伝説も残されている(この禿の祟りという説もある)。

アクセス:広島県呉市豊町御手洗

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