稗の粉池 お糸の墓
【ひえのこいけ おいとのはか】
この辺り一帯は昔から灌漑用水が足りないために旱魃に襲われることがしばしばであった。そこで村人は冷井川の湧水を塞き止めて、ため池を造った。それが稗の粉池である。しかしその完成にこぎ着ける中で、一人の少女の犠牲があった。
ため池造りは難工事であった。堤防が幾度も決壊しては、造り直すことになる。ある時村人は人柱を立てる話をするが、親子兄弟を犠牲にするぐらいならばと躊躇った。そばで話を聞いていたのは、14歳になるお糸であった。お糸は父の文七を亡くし、母一人子一人の身であった。どうせ一度は死ぬ身であるならばと、お糸は母親に人柱になることを告げた。母親は止めたが意志は固く、泣く泣く娘の願いを聞き届ける。
人柱となる当日。身を清めたお糸は白装束に身を包み、輿に乗せられ村中を廻った。一行が堤防に着くと、村人は泣くばかりで、誰もお糸の入った穴に土を掛ける者はないために、役人は早く土を掛けるように命じる。そしてお糸は「死んでいく身に不足はないが、後に残る母さんを頼みます」と言うと、手を合わせ念仏を唱えて人柱となったのである。その時母親は池の向かいにある山の上で娘の名を叫び続けたという。
稗の粉池は享保3年(1718年)に完成。それから池の堤防が決壊することはなく、土地は豊作で潤った。村人はお糸の供養のために地蔵尊を造り、それを「お糸地蔵」と名付けてお堂に安置した。そして稗の粉池の堤防の上にお糸の墓を建てた。さらにお糸が人柱となった8月24日に「お糸祭り」を催し、両親の墓のある大泉寺で供養の読経と於糸地蔵縁起書が語られる。さらに地区こぞっての盆踊りもおこなわれ、お糸の霊を慰めている。
<用語解説>
◆於糸地蔵縁起書
上で紹介した、お糸が人柱となる一連の話はこの縁起書に記されている内容であり、毎年大泉寺住職によって節をつけて語られる。また戦後になってから「お糸地蔵音頭」が作られ、この歌に乗って盆踊りがおこなわれる。
◆大泉寺
浄土宗の寺院。寛永5年(1628年)あるいは元禄5年(1692年)開基とされる。
アクセス:福岡県北九州市小倉南区呼野