大瀧神社・岡太神社

【おおたきじんじゃ・おかもとじんじゃ】

第26代継体天皇がまだ越前国にあった頃。岡太川の上流に忽然と一人の若い女性が現れた。「この土地は田畑を作るのは適していないが、紙を漉いて生計を立てることが出来る」と言うと、手ずから紙の製法を村人に教えたという。そして感謝した村人が、去りゆく女性に名を尋ねると「川の上流に住む者である」とだけ答えた。それ以来、村人はこの女性を“川上御前”という神として崇め祀った。これが岡太神社の始まりであるとされる。

さらに時を経て、泰澄は大徳山を開山して修験道の道場をつくった。その時に産土神の川上御前を守護神とし、主祭神に国常立尊と伊弉諾尊、十一面観音菩薩を本地として大瀧兒大権現を祀ったのである。これが大瀧神社の始まりとされる。

どちらの神社にも深く関わる川上御前は、この地に紙の製法を伝えた神として古くから信仰され、“越前和紙”製造の始祖神として崇められ、遂には大正12年(1923年)に大蔵省印刷局抄紙部に分霊が祀られるに至り、全国唯一の紙の神様とされるに至ったのである。

現在、山腹にある奥宮は大瀧神社と岡太神社のそれぞれが祠を持って祀られているが、里宮の社殿(国重要文化財)は、合祀ではなく並立して両社が祀られている。

<用語解説>
◆越前和紙
その起源を川上御前とする歴史を持つ(正倉院にも越前和紙が収められており、少なくとも奈良時代には存在している)。奈良時代以降も公文書や絵画などに使われ、明治に入ってからは政府発行の紙幣に採用された。今使われている紙幣の透かし印刷も越前和紙の技術によるものであり、現在も株券などの公的な証書類にも使用されている。
岡太神社のある近辺は“五箇”と呼ばれる地域であり、越前和紙製造の一大中心地となっている。

◆泰澄
682-767。越前の生まれ。大宝2年(702年)に文武天皇より国家鎮護の法師に任ぜられる。養老元年(717年)に白山に登頂し白山修験道を開く。その後全国を回り、各地の山岳信仰と関わりを持ったとの伝承が残る。

アクセス:福井県越前市大滝町