願慶寺/吉崎寺

【がんけいじ/よしざきじ】

越前と加賀の国境にある吉崎は、浄土真宗中興の祖である蓮如が畿内より移り、“吉崎御坊”として北陸布教の拠点となった地である。この吉崎御坊における霊験譚として有名なのが「嫁威し肉付きの面」と言われる話である。

毎夜吉崎へ蓮如の説法を聞きに行く嫁を快くなく思う姑が、ある時鬼の面を被って脅したのであるが、その面が顔に付いてしまい取れなくなってしまった。己の邪心を悔いた姑は、嫁と息子に連れられて吉崎に赴いて蓮如の前で懺悔、そして改心を確かめた蓮如が南無阿弥陀仏を唱えると面が取れたという。人の悪心から起こる業の恐ろしさ、念仏の霊験あらたかさ、そして蓮如の徳の高さを喧伝し、真宗布教の説教として絶大な効果があったことは疑う余地がないところである。

この肉付きの面が納められているのが、大谷派の願慶寺と本願寺派の吉崎寺である。どちらも拝観料は500円、いわゆる絵解きを聞きながらの拝観となる。

願慶寺では、座敷に上がって座りながらの拝観となる。こちらの面は憤怒の相の鬼面である。一方の吉崎寺では、博物館よろしくガラスケース越しの拝観となる(しかも感知センサーで自動的に御簾が上がって御対面となる)。こちらはおそろしいと言うよりは薄気味悪い印象を与える面である。いずれも絵解きによる霊験譚を聞きながら、そして信心に対する功徳に感じ入りながらの拝観であり、これ自体もなかなか趣があって良いものであると思った。

<用語解説>
◆蓮如
1415-1499。真宗本願寺第8世門主。父は7世門主存如。最初近江で布教するが、比叡山による迫害のために吉崎へ移転。そこで布教活動をおこない、爆発的に信者を獲得する。その後戦乱に巻き込まれたために京都に戻り、本願寺教団を強固なものとする。「御文」「御文章」と呼ばれる法語を出して、浄土真宗の教義を確立させる。

◆吉崎御坊
文明3年(1471年)に蓮如が、朝倉敏景の帰依を受けて興した。文明6年(1474年)に出火により本坊が焼失。その後も朝倉氏との対立からたびたび戦火に遭い、最終的に織田信長によって完全に破却された。江戸時代になって大谷派・本願寺派によってそれぞれ吉崎御坊が建てられ、現在に至る。

◆大谷派・本願寺派
織田信長と和睦して隠遁した11世門主・顕如が、豊臣秀吉によって京都に招かれ本願寺を建立。その跡を三男の准如が継ぐ。そして慶長7年(1602年)に長男の教如に対して徳川家康が寺院を寄進して、本願寺教団は2つの派に分裂する。准如の流れを汲むのが本願寺派(西本願寺を拠点とする)、教如の流れを汲むのが大谷派(東本願寺を拠点とする)である。分裂については、徳川家康による教団弱体化が目的であるとも言われており、政治的な背景によるところが大きい。教義そのものの内容については、大谷派・本願寺派とも同じである。

アクセス:福井県あわら市吉崎