英林塚

【えいりんづか】

越前の戦国大名と言えば朝倉氏であるが、その出自は越前守護・斯波氏の重臣であった。いわゆる下剋上の結果、実力でこの地の支配権を得たのである。この戦国大名として初代を名乗るに相応しいのが、朝倉氏7代目当主の孝景である。(7代目当主は、時代に応じて教景・敏景・孝景と3つの名乗りを持っている。しかも教景は祖父と父も使った名であり、孝景も曾孫が名乗っているため、非常に判別しづらい。ここでは一応最終の名である孝景で統一する)

史実に名前が出る頃には既に実力者として越前にあったと思われ、守護の斯波義敏と守護代の甲斐常治が争った時は守護代側につき、斯波氏の家督相続に介入したとされる。そして孝景がその力量を発揮したのが、応仁の乱である。斯波氏の家督問題で西軍についた孝景はその主力として活躍し、京都の戦いでは連戦連勝した。その強さは、主家である斯波氏が東軍に寝返ろうとした時の条件が“孝景の首”であったことからも分かる。

しかし乱の始まった次の年には、孝景は東軍に寝返る。越前での守護の権限を獲得するという条件をのんだのである。越前に戻った孝景はここでも連勝し、ついには自力で越前を平定してしまったのである(最終的に支配権を確立させたのは息子の氏景の時代)。

朝倉氏の居城である一乗谷の館跡を見下ろす高台に、孝景の墓碑がある。その法名から英林塚と呼ばれる。現在は覆屋で囲われているが、この墓は越前に危機が迫ると鳴動すると伝えられている。具体的に鳴動したという記録はないが、越前を自らが平定した英傑の墓であるが故の信憑性を感じさせる。

<用語解説>
◆朝倉孝景
1428-1481。朝倉氏7代目。旧主である斯波義敏を追い落として斯波義廉を擁立。応仁の乱では義廉と共に西軍につくが、越前守護の権限を条件に東軍に寝返り、守護代らと戦う。越前国内にあった寺社や公家の荘園領の多くを押領(実力行使で支配)し、“天下一の極悪人”と評されることもあった。戦国大名としての朝倉氏の実質的な初代。
また朝倉氏の居城である一乗谷を本拠地としたともされるが、実際にはそれ以前より一乗谷は朝倉氏の本拠として機能していたとされる。

◆斯波氏
足利氏の庶流として鎌倉時代より続く名門。室町時代には三管領家の筆頭として勢力を持つ。尾張守護と共に越前守護・遠江守護。義敏と義廉の時代に一族の家督を巡って内紛が起こり、応仁の乱の一因となる。戦国時代には、越前は朝倉氏に、遠江は今川氏に、尾張は織田氏に奪われ、最終的に織田信長によって追放され、大名家として滅びた。

アクセス:福井県福井市城戸ノ内町