雪中行軍遭難記念碑

【せっちゅうこうぐんそうなんきねんひ】

1902年1月23日、世界最悪の山の遭難事故が起こった。青森第五連隊の210名は対ロシア戦を想定して雪中行軍演習を行ったが、百年に一度とまで言われた大寒波を受けて遭難。199名が死亡、生存者も凍傷によってほとんどが手足切断という大惨事となった。

この冬の寒波は尋常ではなく、北海道の旭川で国内最低気温マイナス41℃を観測したのもこの月の25日であった。当然この付近も未曾有の寒波と風雪であり、また行軍隊長の上司が参加することでの指揮系統の混乱、さらに装備などに関する情報不足などの悪条件が重なってしまったため、このような惨事が発生してしまったと理由づけられている。

連隊の遭難が判明したのは27日の午前、雪の中に埋まるように直立不動のまま昏倒していた後藤房之助伍長を発見、それから生存者の救出と凍死者の搬送が始まった。発見された遺体は寒さのために凍結しており、疎略に扱うと遺体が折れ砕けてしまう危険があったという。安置所に運び込まれた遺体は、まず火のそばに置かれて柔らかくなってから、棺に収められていった。また捜索も困難を極め、最後の遺体収容は5月末まで掛かった。最終的な生存者は11名、しかし3名を除く8名は四肢切断、軽くて指切断という結果であった。

現在、多くの兵士が遭難死した場所のそばに【雪中行軍遭難者銅像】が建てられている。銅像のモデルとなっているのは最初に発見された後藤伍長であり、彼が雪中で発見された時の姿を現していると言われている。連隊は約3日間、この窪地の周辺を何度も堂々巡りするように彷徨い、そして野営の度に数を減らしていったのである。まさに約200名の命が無惨に奪われた土地である。

この遭難の地から青森市街に抜ける県道40号線は、まさにこの雪中行軍の悲劇を世に残すポイントを繋ぐ道であると称しても間違いない。【後藤伍長発見地点】が道から見える場所にあり、そして少し脇道にそれたところにだが、【遺体安置所跡】にはいまだに卒塔婆が建てられている。さらに市街地へ向かうと、幸畑地区の旧陸軍墓地には遭難者全員の墓碑が建てられて、さらに現在は【雪中行軍遭難資料館】が設けられている。そして40号線の青森市街側の終着地点には青森高校、旧青森第五連隊の跡地がある。

この雪中行軍の悲劇は、不思議な都市伝説としてすぐに流布した。吹雪の夜になると、姿なき軍靴の隊列が第五連隊の営門に近づいて来るという噂が流れた。当時の連隊長はそれを聞きつけ、ある夜営門の前に立ち、軍靴の音がする方を向いて英霊を慰めそして回れ右をさせて送り出したという。

<用語解説>
◆雪中行軍遭難記念碑の像
1906年7月除幕。制作は大熊氏広(靖国神社の大村益次郎像などを手掛ける)。銅像は遭難で最も多くの兵士が亡くなった露営地近くに立っている。陸軍にとって意味深い銅像であり、大戦時の金属供出の際にも破壊を免れている。近隣には【銅像茶屋】あり、個人収集の雪中行軍資料が展示されている。

◆八甲田山雪中行軍遭難資料館
幸畑簿苑の横にある資料館。雪中行軍に関する資料多数。

アクセス:青森県青森市横内字八重菊