帰命寺

【きみょうじ】

鎮守山帰命寺は、寛文10年(1670年)頃の創建とされる、天台宗の寺院である。開いたのは唱岳長音という木食上人である。

長音は慶長7年(1602年)佐渡の生まれ。幼名は吉六といい、15歳頃には両親とも亡くし、そこから仏門に入ったとされる。その後、師の但唱、さらにその師の弾誓と同じく木食行を始め、信州や佐渡に幾つかの寺を開いた。寛文5年(1665年)に自ら開いた佐渡の弾誓寺を弟子に託した後に秋田へ赴き、帰命寺を建立。そして延宝6年(1678年)同地で捨身入定を果たしたとされる。

ところが、この唱岳長音こそが石田三成であるとする生存説が残されている。

唱えたのは歴史学者の渡辺世祐。明治40年(1907年)に『稿本石田三成』を上梓し、石田三成の再評価と歴史的名誉回復に貢献した人物である。この本によると“慶長7年に佐竹義宣が秋田へ転封となった折に三成が逃れてきたため、帰命寺を建てて住職とした”とある。関ヶ原の戦いで敗れた三成は、近江で影武者とすり替わり、京都大原の北にある古知谷阿弥陀寺に身を隠す。そして開山の弾誓上人によって得度して唱岳長音と名乗ったというのである。

史実としての長音の生涯と交差する言葉がいくつか出てくるが、決定的に違和感が残るのが、長音の没年である。仮に石田三成と同一人物であるならば、入定した時には満年齢で118歳となってしまう。

一方、帰命寺の寺伝では“長音は越前国金津の出身で、姓は石田である”とされており、ここでも石田三成との関係性が示唆されている。そのため、関ヶ原の戦いの頃に北陸守備の任にあったとされる“石田左兵衛”という三成の弟あるいはその息子が長音の正体ではないかとの説もある。いずれにせよ、佐竹氏と三成との関係性から生まれた生存説であると言える。

そして唱岳長音の入定後の元禄13年(1700年)に3代藩主・佐竹義処の命により、帰命寺は“唯常院”と改称し、八橋に移転してきた寿量院を境内に置くこととなった。形式上は唯常院は寿量院の塔頭という位置付けがなされたが、これは実質的に帰命寺が寿量院を管理する措置であったという。ちなみに寿量院は、徳川家康以下将軍家の御霊屋を祀る寺院として建立されたものである。

<用語解説> 
◆木食上人
五穀断ちをし、木の実や草を常食としながら修行する高僧を指す。特定の個人を指す名称ではない。安土桃山から江戸初期にかけては、高野山を復興させた応其、浄土宗捨世派の弾誓などが有名。

◆弾誓上人
1552-1613。浄土宗捨世派の祖とされる。全国各地で修行をおこない、慶長2年(1597年)佐渡で阿弥陀仏の説法を感得する。慶長14年(1609年)に京都古知谷に阿弥陀寺を開き、同18年に入定。境内の岩窟には、弾誓が入定した石龕が残り、日本最古の即身仏とされる。

◆渡辺世祐
1874-1957。歴史学者。専門は室町~安土桃山時代。明治大学・国学院大学教授を歴任。

◆佐竹義宣と石田三成
戦国時代の佐竹氏は常陸国の大半を領した大名であったが、奥羽の伊達氏の侵攻に対抗する形で当主の佐竹義宣は豊臣秀吉に臣従する。この仲立ちをしたのが石田三成であり、その後も国人との領地争いなどに際して義宣は度々三成に助力を求めた。対して義宣も、福島正則・加藤清正らの七将襲撃の際に三成に危急を告げて回避させるなどしている。
関ヶ原の戦いでは、佐竹氏は最終的に中立を守る形となったが、西軍支持の義宣に対して、家康と縁の深い父・義重の反対があって動けなかったとされる。

◆唱岳長音の素性の別説
『羽後の伝説』(第一法規出版)によると、帰命寺開山の木食上人(長音とは明記されず)は、かつて江戸神田で義賊をしていた松五郎という男で、前非を悔いて木曽山中で木食行をおこない、徳川家の長久を祈ったとされる。また修行のための諸国を巡ったのは、幕府の隠し目付であった故であるともされた。

アクセス:秋田県秋田市八橋本町