那須与市堂
【なすのよいちどう】
府道6号線沿いにある小高い丘の参道を登ったところにあるお堂である。無住ではあるが、よく手入れが行き届いていることが分かる場所である。この那須与一ゆかりのお堂は明治26年に(1893年)に地元有志によって建てられたものであり、さらにその来歴を紐解くと平安時代に建立された法楽寺に行き着く。
法楽寺が建立されたのは一条天皇の御代。建立したのは安倍晴明とされ、天文学の研究をおこなうために建てたものと伝えられる。そして本尊の阿弥陀如来は源信(恵心僧都)が造ったものであるとされる。
それから約200年近く後の源平の合戦の折、山陰道を経由して一の谷へ向かう源義経の軍勢が通りがかったが、そこに加わっていた那須与一が原因不明の病で倒れてしまう。与一は法楽寺の由緒を聞いて病を押して参拝、阿弥陀如来に頭を垂れるとたちどころに回復した。そこで与一はこの阿弥陀仏に帰依し、護符を身に着けると軍勢を追って戦線に復帰、一の谷を経て屋島の合戦で扇の的を射る殊勲を得たのであった。
それから年月が経ち、那須与一は名声を捨てて仏門に入り、諸国を行脚する身となった。そしてその途中に法楽寺を訪れて再興したとされる。
その後も法楽寺は続いたが、享保元年(1716年)に起きた火災によって全焼。しかし本尊の阿弥陀如来像だけは焼け跡の中に無傷で立っていたという。以降阿弥陀像は近くの寺に預けられていたが、明治になって新たに建立された那須与市堂に安置されることになったのである。
<用語解説>
◆那須与一
1169?-1190?。那須資隆の十一男とされる。源平の合戦では当初より源氏方に属し、源義経の配下として転戦する。屋島の合戦での扇の的を射る功績などから那須氏の当主となる。その後山城国伏見にて病没、即成院に葬られた。なお史実としては、与一が出家して諸国廻国をしたという記録はない。
アクセス:京都府亀岡市下矢田町東法楽寺