氣比神宮・角鹿神社
【けひじんぐう・つぬがじんじゃ】
越前一之宮である氣比神宮の主祭神は、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)である。この神が降臨してきたのは、現在の社殿のある北側、敦賀北小学校の校庭内にある「土公」と呼ばれる一画とされる。そしてこの神が最も記紀に登場するのは、第14代仲哀天皇の時代である。
仲哀天皇と神功皇后は、熊襲征伐へ向かう前に、この敦賀の地に行宮を置いて滞在している。さらに三韓征伐の後に畿内へ戻った神功皇后は、幼い皇子(後の応神天皇)を側近の武内宿禰を付けて越前へ禊ぎのために遣わす。そして仮宮で休んでいた皇子は夢の中で地元の神から名前の交換を申し入れられて快諾した。この地元の神が伊奢沙別命であり、この“伊奢沙別”という名は、元来皇子(応神天皇)の名であったと記されている。翌朝名前交換の証として浜に大量のイルカが献じられていたことから、伊奢沙別命は御食津(みけつ)大神と称され、そこから“気比大神”とも称されることとなったという。
この仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の逸話から遡り、第10代崇神天皇の御代の末期に、この地にやって来た人物がいる。それが朝鮮の意富加羅国から渡来した都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)である。『日本書紀』によると、この国の王子であった阿羅斯等には身体的特徴があり、額に角が生えていたとされる。それ故に都怒我阿羅斯等の名は“角がある人”の意味であると解釈される。その後5年間にわたり彼はこの土地を統治し、その政庁跡に造られたのが、氣比神宮の境内摂社である角鹿神社である。またこの“都怒我”の名が転訛したのが“敦賀”という地名であるとも言われる。
この敦賀の地に現れた伊奢沙別命と都怒我阿羅斯等、さらには神功皇后を全く別の線から結びつける存在に天日槍(あめのひぼこ)がいる。
『日本書紀』によると、天日槍は新羅の王子であるが、父の祖国を訪ねて渡来してきたとされる(朝鮮の歴史でも、新羅の第4代の王は日本より婿となったと記述されている)。その時に持参した宝物の1つに「胆狭浅の大刀(いささのたち)」があり、この名との近似性から“伊奢沙別命=天日槍”説が多く支持されている。
一方で『古事記』では、天日槍は故郷で手に入れた赤玉が化身した少女を妻としたが、口論となって少女が難波に去って行ったのを追いかけて渡来したとされる。それに対して都怒我阿羅斯等の別伝では、加羅にいた時に白玉を得たところ童女と化したので交合しようとしたが、童女は日本の難波さらに姫島に逃げてしまい、それを追って渡来したとされる。ほぼ同じ伝説を持つ故に、“都怒我阿羅斯等=天日槍”の説が流布する。
さらに但馬国に落ち着いた天日槍は、地方豪族として子孫を残した。その玄孫の一人が多遅摩比多訶(たぢまひたか)であり、神功皇后の母方の祖父に当たる人物となるのである。神功皇后が敦賀の地に行宮を置き、皇子が神と名前を交換したのも、おそらくこの地が彼らの祖先がたどり着いた地である故であったと推測するのも間違いではないように思う。
<用語解説>
◆土公
陰陽道における土の神。性格的にはその土地に宿る地霊のような存在であるとも考えられる。氣比神宮では気比大神が降臨した場所とされ、社殿が建立される前には神籬として祭祀が執りおこなわれた。現在は敦賀北小学校(令和3年3月閉校)の校庭にあるが、児童が立ち入ることは固く禁じられ、それが連綿と守られている。いわゆる禁足地である。
◆神功皇后
第14代仲哀天皇の皇后。三韓討伐などの伝説を持つが、それらの信憑性は高くない。地方豪族の息長氏の出身であり、この一族は近江国坂田郡(現・米原市)を本拠とし、越前地方にも勢力を伸ばしていったものと考えられる。実際、応神天皇の玄孫である第26代継体天皇は、息長氏を妻として越前にあったと記録される。
◆都怒我阿羅斯等
加羅の王子であり、日本には5年ほど滞在したとされる。その帰途に11代垂仁天皇より、先帝崇神天皇の諱である“御間城(みまき)”を国名にするよう言われ、国名を“任那(みまな)”にしたとされる。また日本より持ち帰った赤絹を新羅に奪われたことから、両国が不仲となったともされる。
◆天日槍
記紀の記録によると、新羅の王子として最初は播磨国に渡来し、その後は各地を自由に訪問出来る権利を朝廷より得たとされる。それにより播磨国から近江国・若狭国を経て但馬国に入り定住した。現在は但馬国一之宮の出石神社の祭神であり、但馬地方の開拓神とされている。
アクセス:福井県敦賀市曙町