角塚古墳/薬師堂
【つのづかこふん/やくしどう】
角塚古墳は日本最北端の前方後円墳であり、しかも近隣の古墳よりもたった一つだけ1~2世紀ほど古く、さらに前方後円墳としては岩手県に唯一の存在となっており(最も近い前方後円墳とは70kmほど離れている)、その特異な存在で国の史跡に指定されている。それ故か、この古墳には古くからの伝承が残されており、角塚という名もそれに由来している。
昔、この地に髙山掃部という、50近い蔵を持つ長者が住んでいた。長者は人の良い人物であったが、その奥方は、使用人を朝から晩までこき使うような強欲で意地の悪い性格であった。
ある年、悪天候のために米が取れず餓死者が出るほどとなり、村人は長者に助けを求めた。快く長者は蔵を開放して米を施したのだが、それを見て奥方が怒り出した。そこで口汚く喚き散らし悪態を吐きすぎたため奥方は喉の渇きを覚え、井戸の水を飲み干さんばかりに飲んだ。そして水面に映った自分の顔をふと見ると、あろうことか口が耳まで裂けて、頭に角を生やした大蛇の姿になってしまっていた。錯乱した奥方は散々に暴れて屋敷を壊すと、向かいにあった止々井沼に姿を隠し、その沼の主となったのである。
それ以降、奥方が化身した大蛇は里に現れて家畜や人を襲って喰らった。村人が困り果てていると、大蛇は8月15日に15才の生娘を生け贄に差し出すように要求してきた。やむなく村人は、松浦の国から小夜という名の娘を買い、生け贄と決めたのである。
8月15日になり、小夜は化粧坂の湧き水で身を清め、自らの念持仏を髪の中に隠し持ち、止々井沼のほとりで大蛇を待った。やがて雲行きが怪しくなり嵐となると、大蛇が姿を現した。小夜は怖れずひたすら経を読み、そして襲いかかる大蛇に向かって経文を投げつけたのである。経文が大蛇に当たると、突然頭に生えた角が抜け落ち、大蛇の姿はみるみる元の長者の奥方に戻ったという。そしてこの抜け落ちた角を埋めたのが角塚古墳であると伝えられている。
生け贄とならずに済んだ小夜は、念持仏を化粧坂に残し、そこの湧き水を携えると、再び松浦の国へと帰った。そして故郷に着くと、盲目の母の目に湧き水をつけるとたちまち目が見えるようになったという。
現在でも南都田には化粧坂という地名が残っており、そこにある久須志神社の境内に薬師堂がある。この薬師堂に安置されているのが、小夜の念持仏と伝えられている。慶安年間(1648~1651年)の頃に、修験者の宝性院明盛という者が夢告を受け、薬師堂跡から薬師如来像を掘り当て、この地に薬師堂を再興したとされる。像の大きさは一寸八分、33年に一度開帳され、小夜の伝説に従い眼病に効験があると言われる。
<用語解説>
◆東国の「佐用姫伝説」
“松浦佐用(小夜)姫”は肥前の長者の娘で、朝鮮へ出征する大伴狭手彦と恋仲となるも結局別れることとなり、その悲しみから石と化したという悲恋伝説が残されている。
ところが一方で、“松浦の佐用姫”は金で買われて(あるいは自ら志願して)大蛇の人身御供となって遠国へ連れられて行き、そこで読経の功徳によって大蛇を改心させ(その多くは蛇体になる前の元の人間に戻すことで終わる)、めでたく故郷に戻っていくというパターンが東日本を中心に存在する。この角塚古墳の伝説はその典型例である。
なお佐用姫が大蛇と絡む伝説は『肥前国風土記』にあり、それ変形されて流布したものとも考えられる。
アクセス:岩手県奥州市胆沢区南都田