流刑小屋
【るけいごや】
江戸時代、五箇山の地は加賀藩・前田家の領地であった。人もほとんど行き交うことも出来ないこの地は、やがて加賀藩の流刑地として利用された。特に庄川の右岸一帯は山と川によって隔絶された場所であり、罪人が逃げ出すことがほぼ不可能であった。それ故加賀藩は庄川に橋を架けることを禁じ、人の行き来を極端に制限して流刑地としたのである。五箇山に初めて流人が送られてきたのは寛文7年(1667年)のこととされ、以降幕末まで約150名の流刑者があったと記録されている。
この庄川右岸に位置する田向も流刑地とされた7つの集落のうちの1つであり、かつて加賀藩が使用していた流刑小屋が現存する。明和5年(1769年)に起きた大火の後に造られたものとされ、明治以降は物置小屋として利用されていたという。昭和38年(1963年)に雪で倒壊するが復元されて、現在に至る。
流刑小屋の大きさは、間口2.7m、奥行3.6mで、約6畳の広さがある。中は板敷きで、便所が付いている。戸口はあるが流人の収容と釈放の時以外は鍵が掛けられ、食べ物の受け渡しは柱に開けられた穴からおこなうことになっている。
この流刑小屋は「お縮り小屋(おしまりごや)」と呼ばれ、かなり重罪の流人が入るところであった。通常の場合、流人は流刑となった集落内であればある程度の自由な活動は認められており、村人との交流もあった。しかしこのお縮り小屋に入れられる者は、この外に出ることは許されず、村人との接触も食事の受け渡しのみという厳しいものであった。さらの重罪の者はこの小屋の中にしつらえられた檻の中に入れられ、全くの自由を奪われたとされる。
アクセス:富山県南砺市田向