新庄城趾

【しんじょうじょうし】

新庄藩は、元和8年(1622年)に山形藩の最上氏が改易となった後、新たに成立した藩である。初代藩主は戸沢政盛。はじめは居城を鮭延城としていたが、山城であったために幕府に許可を願い出て、新たに造ったのが新庄城である。この築城の際に人柱伝説が残されている。

新しい城を造る地は沼田と呼ばれており、その名の通り、湿地帯であった。そのために堀を造るのに土を盛っても固まらず、工事は難航した。そこである法師に占ってもらったところ、十三の娘を黒牛に乗せて人柱にせよ、というお告げを得た。そこで領内から娘を選び人柱にしたのである。結果、難工事は一気にはかどり、城はようやく完成したという。

ところが、完成後から不気味な噂が立った。本丸付近の池辺りに夜な夜な少女の幽霊が現れて「水が欲しい、喉が焼ける」と言って泣くというのである。これには屈強の武士たちも恐れをなしたと言われる。

新庄藩は明治維新まで戸沢家が藩主として統治していたが、新庄城は戊辰戦争で灰燼に帰している。現在城跡は最上公園という名で、市民の憩いの場とされており、巡らされた堀や石垣が当時の面影を残している。また敷地内には藩祖・戸沢政盛を祭神とする戸沢神社もある。しかし、人柱となった娘にまつわる痕跡は何一つ残されていない。

<用語解説>
◆戸沢政盛
1585-1648。戸沢氏は鎌倉時代から続く、奥州・角館の豪族である。政盛は庶子として育てられたが、父と叔父の急死によって家督を継ぐ。豊臣秀吉死後は徳川家康に接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属す。その後も徳川譜代の鳥居忠政の妹を正室に迎え、さらに忠政の次男を嫡男として譜代大名へと変貌していった。常陸国松岡藩を経て、新庄藩の藩祖となる。

アクセス:山形県新庄市堀端町