耳塚

【みみづか】

岩美町岩常は、南北朝時代に因幡国の守護所として栄えた。交通の要衝であり、かつ金銀をはじめとする鉱山が近くにあったためとされている。現在ではのどかな田園地帯が広がる土地であるが、その一角に耳塚と呼ばれる石碑がある。伝承によると、この塚が造られたのは、この南北朝時代の頃であるとされる。

伯耆・出雲守護として山陰一帯に勢力を伸ばしていた山名時氏は、足利尊氏・直義兄弟の争い(観応の擾乱)に乗じてさらに領土拡張を画策し、反尊氏派の一大勢力として京都へ侵攻して戦いを繰り広げた。正平10年(1355年)には3度目の京都奪取を試み、5000の兵を率いて八幡に出陣するが、結局、多数の犠牲を払いながら撤退せざるを得ない状況となった。時氏の配下だけでも侍84名、郎党263名もの戦死者があったという。

これら347名の戦死者を本拠の岩常において供養したのが、耳塚である。この時、時氏は遺骸を持ち帰る代わりにその全ての耳を切り取り、全員の名を書き記して岩常に送って葬ったとされる。現在では葬ったとされる寺院は跡形もなく、ただ石碑が残されているだけである。その石碑も、元禄7年(1694年)に再興されたものである。

<用語解説>
◆山名時氏
1303-1371。鎌倉幕府の御家人。足利尊氏の母とは従兄弟の間柄となることから、尊氏に与して鎌倉幕府を倒す。塩冶高貞に代わって伯耆・出雲の守護となる。観応の擾乱以降は領地問題から反尊氏派(南朝方)となり、たびたび尊氏派と戦う。混乱が収まると幕府に帰順し、5カ国の守護となり山陰一帯の勢力を伸ばした。

◆観応の擾乱
足利尊氏の弟・直義と、足利家執事の高師直との対立から始まる。多くの有力守護が利権争いから両陣営に与し、さらに対立のあまり、本来仇敵であった南朝方とも手を組むなどして政治的な混乱が生じる。高師直の排除、足利直義の死後も、西国の足利直冬の蜂起や山名時氏と佐々木道誉の対立などによって混乱は続く。最終的に正平18年(1363年)に山名時氏と大内弘世が幕府に帰順して収束した。

アクセス:鳥取県岩美郡岩美町岩常