南宗寺

【なんしゅうじ】

弘治3年(1557年)三好長慶が父の菩提を弔うために開山した臨済宗の寺院である。その後幾度か戦火で焼け落ちたが、大坂夏の陣の後に沢庵宗彭が現在地に再興した。その後も第二次世界大戦の空襲で建物の一部が焼失している。

現在この寺院の境内には、空襲で焼け落ちた開山堂と東照宮の跡に1基の墓が安置されている。これが徳川家康の墓として昭和42年(1967年)にに造られた墓石である。発起人は、水戸徳川家の家老の末裔である三木啓次郎である。ただこの南宗寺には再興時以来まことしやかに徳川家康の墓が安置されていると言われている。

寺の記録によると、再興時より開山堂の床下には無銘の無縫塔があり、これが家康の墓であるとされる。さらに寺伝では、大坂夏の陣の際、敵の襲撃を受けた家康が逃げる途中で後藤又兵衛と遭遇、又兵衛は家康の乗る輿を槍で刺しそのまま立ち去った。その傷が致命傷となって家康は亡くなり、南宗寺に埋葬されたという(その後久能山へ改葬されているとも伝えられている)。これが慶長20年(1615年)4月27日のこととされる。あるいは5月7日に真田幸村の猛攻に遭った家康が逃げ惑う中、後藤又兵衛が槍で刺した傷が元で亡くなったとする。

しかしこの寺伝には決定的な問題点がある。即ち、4月27日には家康は京都に滞在中であり、また5月7日には後藤又兵衛は既に討死しているのである。

ただしこの家康の墓の伝承は一概に虚構であるとは言い切れない面もある。

現在日光東照宮には、家康が大阪夏の陣で使用した網代駕籠が保管されているが、この駕籠の屋根の部分に槍で突き刺した跡がはっきりと残っており、襲撃などの不測の事態があったことを示している。

さらに記録によると、元和9年(1623年)7月10日に2代将軍徳川秀忠が、さらにその1ヶ月後の8月18日に3代将軍徳川家光が、わざわざ堺にまで足を運んで南宗寺を参詣している。しかもこのわずかな期間に、秀忠から家光へ将軍職が譲られるという、徳川家にとって最も重要な出来事が起こっている。また新たに堺奉行が任命されると、まず南宗寺に参詣したという事実もある。境内に東照宮があった事実も併せると、家康に何かゆかりのものがあってもおかしくないと考えるのが自然だろう。

南宗寺の境内を巡っていると、その一角に小さな無縫塔が祀られている。これが空襲で焼け落ちた開山堂之跡から見つけ出された家康の墓とされる。

<用語解説>
◆三木啓次郎
1877-1972。北辰一刀流免許皆伝の剣術家。大阪で実業家の松下幸之助と出会い、経済的な援助を行ったことから、終生交流があった。この南宗寺の徳川家康の墓建立発起人の中にも松下幸之助の名前が残されている。

アクセス:大阪府堺市堺区南旅篭町