明の宮 白峯神社

【あかりのみや しらみねじんじゃ】

日本史上、唯一魔道の者となると公的に宣言した人物がいる。崇徳天皇である。

鳥羽上皇を父に、待賢門院を母に持つ崇徳天皇であるが、実の父は祖父に当たる白河上皇であると、当時から暗黙の事実として言われてきた。それが数奇の運命の最初であった。鳥羽上皇は、父である白河上皇が亡くなると、“叔父子”である崇徳天皇を排斥し始める。上皇は崇徳天皇を退位させ、実子の近衛天皇を据えて院政を始める(院政は天皇の直系尊属、つまり父か祖父でなければ行えない。崇徳上皇は上皇であっても、院政を行うことは不可能なのである)。さらに近衛帝崩御の後には、崇徳上皇の同腹の弟が皇位に就く。1156年鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇は武力行使によるクーデターを画策する。しかしそれよりも早く仕掛けたのが、実弟である後白河天皇であった。この【保元の乱】であっけなく敗れた崇徳上皇は、厳罰というべき讃岐への配流となる。そこで菩提のために、自らの指先から血を絞り出して大乗経190巻を写経し、京都のいずれかの寺院へ納めてほしいと頼んだ。しかし、後白河天皇はそれを拒否。ここに至ってついに崇徳上皇は、自らを怨霊と化すのである。
「我、日本国の大魔王となり、皇をとって民となし、民を皇となさん」。

送り返された経文の最後に、舌を噛み切ってこう血書した上で海中に沈めた崇徳上皇は、それから髪をくしけずらず、髭も爪も伸ばし放題となり、さながら天狗のような様相となった。そして9年後、京都へ戻ることなく46歳で崩御する。

遺体を荼毘に付すための勅許を得るまでの約20日間、上皇の遺体は“八十場の霊泉”に漬けられ腐敗を防いでいたという。その遺体がおかれていた場所の近くで、毎夜のように神光が現れた所があった。上皇の没年にはこの地に【白峯宮】が建立され、その怪光出現の故事から【明の宮】と呼ばれるようになった。

この白峯神社と同じ敷地には四国八十八ヶ所の七十九番札所の“天皇寺”がある。元は空海建立の寺院であったが、白峯宮創建後はその神宮寺としてこの名前となったという。ちなみにこの辺り一帯は古くは“天皇”と呼ばれており、坂出でも最も上皇ゆかりの地と言ってもいいかもしれない。

アクセス:香川県坂出市西庄町