明智光秀首塚

【あけちみつひでくびづか】

天正10年(1582年)、本能寺の変で天下を握った明智光秀であったが、わずか11日後の山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ討死する。最期は、わずか10名ほどの供回りを従えて居城に落ち延びる最中に、小栗栖の竹藪で土民の手に掛かって致命傷を負い自刃するという悲劇的なものであった。

自刃した光秀を、家臣の溝尾茂朝が介錯したところまでは諸説一致するのであるが、その後の首級の顛末はまちまちになっている。茂朝が居城の坂本へ持ち帰ったとも、難を逃れるために一時土中に埋められたとも、さらには秀吉方の手に落ちて刑場などに晒されたともされる。その中で三条白川橋を南に下ったあたりに、明智光秀の首塚とされるものが残されている。

『京都坊目誌』によると、隠されていた首級は発見された後に胴体と繋ぎ合わせて、粟田口刑場に晒されたらしい。そして現在の蹴上辺り(西小物座町)に、他の将兵の首と共に埋められたとされる。それから時を経て、明和8年(1771年)になって、光秀の子孫と称する、能楽の笛の演者をしていた明田利右衛門という人物が、その場所にあった石塔をもらい受けて自宅近くに祀った。さらに明治維新後に現在地に移したという。

現在の首塚には、弘化2年(1845年)に造られた五重石塔、明治36年(1903年)に歌舞伎役者の市川団蔵が寄贈した墓、そして小祠がある。祠の中には光秀の木像と位牌が納められており、かつては衣服の切れ端や遺骨などもあったとされる。これらを管理しているのは、首塚に入る路地の角にある“餅寅”という和菓子屋。この店では、桔梗の紋が入った“光秀饅頭”なる銘菓が売られている。

<用語解説>
◆明智光秀
1528-1582。明智氏は美濃の守護・土岐氏の支流。各地を転々とするも、織田信長の武将として頭角を現す。本能寺の変で織田信長を弑するが、その動機は謎とされる。山崎の合戦の直後に敗死したとされるが、一説では、後に徳川家康らに仕えた天海僧正が同一人物であるとも言われる。

◆溝尾茂朝
1538-1582。通称・庄兵衛(勝兵衛)。明智光秀の家臣として初期より仕える。小栗栖で光秀の介錯をし、その首を居城の坂本まで持ち帰った後に自害したとされる。

◆『京都坊目誌』
大正3年(1914年)に郷土史家の碓井小三郎(1865-1928)が著す。明治期の京都の名所・史跡などを紹介している。

アクセス:京都市東山区梅宮町