藤森神社

【ふじのもりじんじゃ】

京都教育大学に隣接する地に藤森神社はある。この神社は相当古い歴史を持っており、神功皇后が新羅より凱旋した際に旗や 武具を納めたのが起源とされている(境内には神功皇后の旗塚なるものがある)。そのためか、この神社は素戔嗚尊・日本武尊・武内宿禰など武威を示した神が多く祀られており、端午の節句に武者人形を飾る風習の発祥の地であるとされている。

さらに東殿には天武天皇と舎人親王、西殿には早良親王・伊予親王・井上内親王が祀られている。古文献によると三つの社が合祀されてできた神社だとも言われている。

ちなみに早良親王に関していうと、他の神社のように御霊信仰のみで祀られているのではない。蒙古が攻めて来るという噂が流れ、早良親王がこの地で戦勝を祈願して出陣したとの言い伝えがあり、武神としての性格も帯びているのが異色である(ちなみ境内には【蒙古塚】というものがある)。

この神社の摂社である大将軍社は、平安京造営の際に桓武天皇が設けた四つの大将軍社の一つであるとされる(南の方角)。この境内社も別の土地から移されてきたものであるとも推測できるだろう (古文献によると、南の大将軍社だけは所在不明であるとされていた時期があるという)。この大将軍社自体は室町幕府6代将軍足利義教の命によって建てられた重要文化財である。

複数の社が集められて形成されていると言ってよい経緯はあるにせよ、現在の藤森神社と言えば“勝負事の神様”。特に駈馬(かけうま)神事などの縁もあって、競馬の神様のような扱いを受けている(この神社と京都競馬場は京阪京都線で一直線で行ける)。

<用語解説>
◆舎人親王
676-735。父は天武天皇。720年に『日本書紀』を編纂し奏上する。政治家としても初期の聖武天皇を長屋王と共に補弼し、藤原光明子の立后を画策した。藤森神社では『日本書紀』編纂をおこなった“学問の神”として位置付けられている。

◆早良親王
750-785。光仁天皇の皇子、桓武天皇の同母弟。桓武天皇即位の時に立太子されるが、藤原種継暗殺に連座して廃される。無実を訴えて絶食し、配流途中で憤死。その後祟りをなし、祟道天皇と追号される。早良親王が蒙古を撃退したのは天応元年(781年)とされるが、正式な記録は残されていない。

◆大将軍神社
桓武天皇が、王城鎮護のために東西南北に置いた4つの神社。東は東三条、西は西大路一条、北は大徳寺門前(西賀茂)にある。南の大将軍神社のみ、平安京の位置から考えるとかなり距離が離れている。

アクセス:京都市伏見区深草鳥居崎町

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