浮鯛神社

【うきたいじんじゃ】

『日本書紀』によると、神功皇后が角鹿(現:敦賀)から豊浦津(現:下関市長府)へ赴く途中の渟田門という地において、船上で食事中に多数の鯛が寄ってきた。そこで皇后が酒を注ぐと、鯛が酔ったように海面に浮かんできた。土地の者はそれを喜び、それからこの季節になると、その海では鯛が酔ったように浮かび上がるのだという。

この現象は“浮き鯛現象”と呼ばれ、現在では科学的に説明できるものである。産卵のために外海から瀬戸内に入ってきた鯛が、海流の関係で速い潮の流れにもまれるために、体内の鰾(うきぶくろ)の調節が間に合わなくなって浮き上がってしまうのだそうだ。瀬戸内でもこの現象がよく起こるのがこの幸崎町能地一帯であり、これは春の風物詩としても名高く、春の季語としても採用されている。

この能地は、かつて“家船”と呼ばれる、漁業と行商を生業としながら水上生活をしていた人々の出身地として知られる。彼らは船を住処とし、各地の近海で漁をし、そして陸に上がって行商をして生活必需品を得ていた。そのような漂泊の民が通行手形のように持っていたのが“浮鯛抄”と呼ばれる書状である。そこには、先に挙げた神功皇后にまつわる伝承の続きとも言える話が書かれている。

神功皇后が酒を注いだことで浮き上がった鯛を地元の海士が獲り、それを皇后に献上したという。その時、皇后は上陸してこの地をご覧になって、五穀豊穣なる土地と認めて“能地”の名を与えた。さらに海神に対して幣を海に流し、その幣が打ち上げられた場所を“浮幣”と称して、そこに「浮幣社」という祠を建てたのである。また鯛を献上する際に飯を入れる器に入れ、男ではなく女が頭上に器を乗せて献上した。それを喜んだ皇后は勅を出し、「この浦の海士に永く日本の漁場を許し給う。それ故に、この地の海士はいずれの国で漁をすれど障りなく、また運上を出すことなし」というお墨付きを授けたのである。

この“浮鯛抄”のおかげで、能地の家船の民は日本各地の漁場を転々と移動しながら生計を立てることが出来たのである。

現在「浮幣社」は浮鯛神社という名で呼ばれ、毎年4月に神事がおこなわれる。本殿に供え物と御神酒を供えると、“包丁石”と呼ばれる石の上で鯛を捌いて供えるのである。戦後になって“家船”のような水上生活者は消滅し、また環境の変化から浮鯛現象もあまり起こらなくなった。今は浮鯛神社での神事が、昔の伝承を引き継いでいると言えるだろう。

<用語解説>
◆家船
船を住処として、各地を移動しながら漁労に従事する漂白民。長崎の五島列島や、瀬戸内海に多く見られた。江戸時代には、藩に対して海産物などの上納をおこない、漁業権が認められていた。しかし明治以降の近代化に伴って次第に減っていき、昭和時代の後半には、法による規制もあって、そのような生活形態を維持する者はいなくなった。

アクセス:広島県三原市幸崎町能地