妙蓮塚三体地蔵

【みょうれんづかさんたいじぞう】

新田義興と共に矢口渡で命を落とした側近たちは十寄神社に祀られている。しかし、伝承によると、十寄神社は別名【十騎神社】と言い、義興公側近の内、10人の霊を慰めるために造られた神社であるとという。そしてこの十寄神社とは別の場所に義興側近を祀る場所がある。それが妙蓮塚三体地蔵である。

十寄神社の由緒書きには10名の側近の名が記されているが、何名かは名前が入れ替わることがある。しかし妙蓮塚三体地蔵については、祀られている人物の名は完全に特定されている。土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎の3名であり、いずれも渡河中にだまし討ちに遭った時に向こう岸にまでたどり着き、敵と刃を交えて討ち死にしたとされている。この3名の忠烈を思い作られたのが、この三体の地蔵なのである(ちなみに十寄神社の由緒書きにも彼ら3名は名を連ねている)。

この三体の地蔵が祀られている場所は、新田神社・十寄神社からそこそこ離れている。かつてはこの二つの神社と 地蔵の間には多摩川が流れていたという。つまりこの地蔵が建っている場所は、3名の側近が川を渡りきって奮戦し、そして討ち死にした場所なのである。

妙蓮塚という名が残っているのは、この地蔵をこの地に祀ったのが妙蓮という尼であったということからであるらしい。特に寺社の境内にあるわけでもなく、いわゆる“道端のお地蔵さん”という感じなのだが、すごく手入れされたお堂に安置されている。

<用語解説>
◆新田義興
1331-1358。南朝の武将である新田義貞の次男。足利将軍家の不和に乗じて1352年に関東で挙兵し、一時は鎌倉を攻略する。足利尊氏死去直後に謀殺される。祟りの顛末については、平賀源内によって書かれた『神霊矢口渡』という歌舞伎芝居でも有名となる。

アクセス:東京都大田区下丸子