多武峰内藤神社
【とうのみねないとうじんじゃ】
日本最大の人口を誇る東京23区であるが、その区域内には広大な緑地公園がいくつもある。その中の一つ、新宿御苑は面積約58万㎡、外周が約3.5kmという公園である。この土地は、元をただせば高遠藩3万3千石内藤家の下屋敷があった場所で、その広大さは諸大名の江戸屋敷の中でも格別とされた。しかし、内藤家が本来有していた土地はさらに広く、元禄12年(1699年)に甲州街道に新しい宿場を設けるために、内藤家の土地を半分近く返上させたという。この新しい宿場こそが現在の新宿であり、内藤家の領有地がいかに広大であったかが分かるだろう。
新宿御苑の東端に隣接するように建っているのが、多武峰内藤神社である。この神社は元々内藤家の下屋敷内にあったもので、いわゆる屋敷神である。主祭神は藤原鎌足であり、これは内藤家の家祖に当たるとされ、鎌足が祀られている多武峰談山神社より勧請したものである。
そして境内にある石碑の一つが“駿馬塚”である。この塚は文化13年(1811年)に造られたものだが、これこそが内藤家がこの新宿一帯の広大な土地を持つに至った伝説の証である。
天正18年(1590年)、徳川家康は関東移封となったが、その先遣として江戸に入った家臣の一人が内藤清成である。清成は鉄砲隊を率いて、甲州街道と鎌倉街道が交差する場所あたりに陣を構えて櫓を築いたとされる。この2つの街道が交差する場所が現在の新宿である。そして無事に江戸に入府した翌年に家康は清成の陣に赴き、今回の移封が滞りなく終わった褒美を与えると伝えた。それは“この一帯、馬が一息で駆け回っただけの土地を与える”というものであった。清成は一頭の白馬を引き出すと、人家もないような平地を一気に走った。そして東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に至る、20万坪を超える広大な土地を得たのである。だが馬は走り終えた途端に倒れてそのまま死んでしまい、近くの大きな樫の木の下に埋めて葬ったとされる。

<用語解説>
◆内藤清成
1555-1608。徳川家譜代の家臣。徳川家康の小姓を務め、嫡男の秀忠が生まれると傅役に任ぜられた。その後は関東総奉行や江戸町奉行、老中の職に就く。関ヶ原の戦い後に2万石の大名となる。
◆その後の内藤家
清成の死後、家督は長男の清次が継ぐが、嗣子がないため清次以下3人の兄弟が相次いで相続した。だがそれぞれ短命のため、三男の清勝の死後は幼少の嫡男・重頼が家督を継ぐものの、安房勝山藩2万石を返上し5千石の旗本となる。その後重頼は京都所司代にまで出世して3万3千石の大名となり、養子の清枚が同じ石高で高遠藩に移封、以降は明治維新まで高遠藩主として存続した。ちなみに一時不遇の時代もあったが、この広大な下屋敷の土地を内藤家は父祖伝来堅持し続けていた。
アクセス:東京都新宿区内藤町

