犀ヶ崖

【さいががけ】

元亀3年(1572年)12月、浜松城にあった徳川家康は、三方原で武田信玄の軍勢と野戦に及び完膚なきまでの惨敗を喫する。家臣が身代わりとなって命からがら浜松城に引き返した家康であるが、敢えて城門を開けっ放しにして篝火を焚かせる“空城の計”を用いて、城まで追い詰めてきた武田勢を怯ませることに成功した。そして武田勢は城から少し離れた場所で野営することとなったのである。

ここから徳川方が一矢報いるために仕掛けたのが夜襲である。武田勢の野営地の近くには、深い断崖のある犀ヶ崖があった。まず密かにその断崖に白布を架けてあたかも橋があるように見せかけた。そして鉄砲隊を間道から敵陣背後に配して一斉射撃をおこなったのである。夜襲を受けた武田勢は慌てふためき、次々と偽物の橋を渡ろうとして人馬もろとも断崖に転落していった。その数は百を超えるとも言われる。

この犀ヶ崖の戦いの翌々年から、崖の下から人の呻き声や馬の嘶きが聞こえる、付近で“かまいたち”に遭って怪我をする者が絶えない、あるいはイナゴの被害が起こるなど良くないことが続いたため、人々はこれを犀ヶ崖の戦いで亡くなった者の祟りであると言い始めた。訴えを聞いた家康は、三河から了伝上人を招いて供養をおこなった。了伝は当地で七日七晩掛けて大施餓鬼の念仏を唱えることによって、ついに怨霊を鎮めたのである。家康はこの功績を永世伝えることを命じ、領民に盆の期間に大念仏を行うように命じたのである。これが現在も続く「遠州大念仏踊り」の始まりである。

犀ヶ崖の断崖は、現在、長さ約120m、幅約30m、深さ約13mとなっている。しかし合戦のあった頃は、長さ約2km、幅約50m、深さは優に40mはあったと伝えられており、実際に急ごしらえで布を架けることが出来たかは甚だ疑問に感じるところである。また犀ヶ崖の戦いそのものの記述が、徳川幕府が興ってから以降の史料にしか見当たらないという事実からも、実際にそのような夜襲があったかには疑問を呈する部分がある。ただこの付近で何度も行われたであろう合戦の中で、あるいは日常の営みの中でこの断崖から転落して死んだ者が多数あったことは疑いのないところである。

<用語解説>
◆三方ヶ原の戦い
約3万の大軍を率いた武田信玄が西へ進軍。それを浜松城近くで迎え撃った徳川家康と織田援軍約1万数千が戦った。当時最強と呼ばれる武田の騎馬軍に徳川勢は大敗し、家康の生涯最大の危難の一つと数えられる。

◆了伝上人
三河出身の浄土宗の僧。桶狭間の戦いの時、大樹寺に逃げ込んだ徳川家康が自害するのを諭し救って以来信任に厚く、慶長13年(1608年)に江戸に松平西福寺が創建された折、将軍家より開山として招かれる。

◆遠州大念仏
犀ヶ崖の戦いでの鎮魂を目的として行われた大念仏会を起源とする(あるいはそれ以前よりあった害虫や疫病除けのためにおこなっていたとする説もある)。了伝が始めたとされるが、その後を託された宗円が普及させたとされ、現在犀ヶ崖にある旧資料館は「宗円堂」として建てられたものである。現在は、初盆を迎えた家を回り、念仏踊りをおこなう行事として定着している。

アクセス:静岡県浜松市中区鹿谷町