南洲墓地

【なんしゅうぼち】

日本における最後の内戦である西南戦争は、官軍・薩軍とも約7000人の戦死者を出している。その薩軍のうち約2000名が葬られているのが、南洲墓地である。

西南戦争は明治10年(1877年)に城山で西郷隆盛が自刃、薩軍全滅を以て終結する。直後に鹿児島県令であった岩村通俊が許可を得て隆盛らの遺骸を埋葬、明治12年に有志によって鹿児島市内にあった薩軍兵の墓を一箇所に集め、さらに他県で亡くなった者の墓も改葬した。これが現在の南洲墓地である。

墓地の最も目立つ中央にあるのが西郷隆盛の墓、その左右には桐野利秋と篠原国幹の墓がある。その他にも従軍した幹部をはじめ、数々の逸話を残す人物の墓が並んでいる。

明治13年には、西郷の墓地に訪れる者が増えたため隣接する土地に参拝所がが設けられ、それが大正11年(1922年)に西郷隆盛を祭神とする南洲神社となった。また西郷隆盛没後100周年を記念して南洲記念館も建てられている。

<用語解説>
◆西南戦争
明治10年(1877年)に起こった、政府軍と薩摩藩旧士族との内戦。薩軍の首領である西郷隆盛は慎重であったが、私学校幹部の決起を止めることが出来ず、2月15日に蜂起。薩軍は熊本城を囲むが戦況は膠着、3月に田原坂の攻防を経て政府軍が攻勢に転じ、4月には熊本城から撤退。6月以降も人吉・延岡の緒戦で薩軍は敗北する。そして9月に鹿児島の城山の攻防戦となるが、同月24日政府軍総攻撃により西郷が負傷・自刃、他の将兵も戦死して終戦となる。

◆西郷隆盛
1828-1877。号は南洲。明治維新時の功によって、新政府において参議・陸軍大将。征韓論での政治的対立から下野、郷里の鹿児島へ戻り、私学校を設立する。政府による士族階級への待遇悪化に不満を持つ士族の反乱が頻発する中、西南戦争の首領となり、敗戦時に自刃。
しかし直後から不死伝説が流布し、中国大陸へ逃れたとか、明治24年(1891年)に来日したロシアのニコライ皇太子に随行して帰国するのではなどの噂が流れた。また別の噂話として、死の直前に火星の大接近があり、火星と知らない人々はここに陸軍大将の正装をした西郷が見えるとして「西郷星」と称したこともある。

◆岩村通俊
1840-1915。土佐藩出身。大山綱良(西南戦争に先立ち薩軍に武器や金銭を供与したため、戦争後に処刑)に代わって鹿児島県令となる。その後、初代北海道庁長官など歴任。

◆桐野利秋
1838-1877。陸軍少将の地位にあったが、西郷下野に応じて辞職して鹿児島に帰郷。その後は私学校の幹部となり、西南戦争では四番大隊隊長であり、総司令の立場にあった。城山の決戦で最後まで戦うが戦死。

◆篠原国幹
1837-1877。陸軍少将・近衛長官を辞して、西郷下野に従う。私学校設立に携わり、また西南戦争では一番大隊隊長であり、副司令の立場にあった。田原坂の戦いにおいて戦死。

アクセス:鹿児島県鹿児島市上竜尾町