佐藤継信の墓

【さとうつぐのぶのはか】

寡兵をもって背後の陸伝いに屋島を攻めた源義経主従であるが、あたかも大軍で攻めてきたと見せかけながらの進軍であったため、狼狽した平家軍は屋島の陣を捨てて船団を率いて海上へと逃れてしまった。ところが、いざ義経の軍勢が少ないことを知るや、一転して岸辺に近づき船上より矢を射かけだした。ここから屋島の激戦が始まる。

平家にあって強弓の使い手であった平教経は、敵大将の義経に狙いを定め、一撃で斃さんとばかりに矢を放った。しかし郎等達は我が身を盾に義経を守る。その中で真っ先に馬を寄せた佐藤継信に矢が命中。左の肩に刺さった矢はそのまま右の脇へと貫通し、継信はそのまま落馬する。陣の奥へ運ばれた虫の息の継信に、駆けつけた義経が「思い残すことはないか」声を掛けると、継信、
「思い残すことはないが、主君の出世を見届けずに死ぬのは残念だ。武士というものは敵の矢に当たって死ぬことは元より期するところ。源平の合戦の折に、奥州の佐藤継信という者が屋島の磯で主の身代わりとなって討たれたと、末代まで物語りされれば武士として今生の面目、冥途の思い出となる」と答えて息絶えた。

義経は継信の最期を看取り涙を流すと、近くにいた僧を呼び、太夫黒(大夫黒:たいふくろ)という馬を与えて供養料として菩提を弔わせたのである。

これが『平家物語』巻十一にある「嗣信最後」にある、佐藤継信の死の顛末である。

佐藤継信は弟の忠信と共に、奥州平泉にあった義経が頼朝の挙兵に応えて出立する際に、藤原秀衡の命を受けて従者となった。その活躍はめざましく、後に“義経四天王”の一人とされた。義経の主立った郎党の中で一番最初に命を落とした武将でもある。

その忠臣・佐藤継信の墓が屋島に近い場所にある。最初に建てられたのは寛永20年(1643年)、高松藩初代の松平頼重による。そして現在のような墓所となったのは昭和6年(1931年)に継信30世の子孫である佐藤信古による。

さらにこの墓所の片隅には、太夫黒の墓がある。この馬は後白河法皇より源義経に下賜され、一ノ谷の合戦の際に義経が騎乗して“鵯越の逆落とし”をやってのけた名馬である。伝承によると、継信供養のために志度寺の覚阿上人に譲られた後に寺より忽然と消え、数日経って継信の墓のそばで倒れて死んでいたという。そのために同じ敷地内に墓が建立されている。

継信の忠義を賛辞するために、この付近には墓以外にも石碑が建てられている。一つは、屋島寺への遍路道の途中に松平頼重が建立した顕彰碑。そして継信が討死した場所とされる射落畠(いおちばた)に佐藤信古が建立した射落畠碑である。いずれも墓の建立と整備がおこなわれた同じ年に建てられている。

<用語解説>
◆平教経
1160-1184/1185。平清盛の甥にあたる。『平家物語』では“王城一の強弓精兵”と呼ばれ、猛将として描かれており、壇ノ浦の合戦でも源義経を追い詰めるが八艘飛びで逃げられ、最期は両脇に大男2人を抱えて入水したとされる。しかし一方『吾妻鏡』では一ノ谷の合戦で討ち取られ、京都で晒し首にされたともされる。また壇ノ浦の戦い後も生き延び、落人として祖谷に住み着いたという伝説もある。

◆松平頼重
1622-1695。水戸徳川家初代・頼房の長男として生まれるが、まだ子のできない御三家の尾張・紀伊に憚って、その存在は実父にすら隠し通された。水戸藩の跡継ぎが徳川光圀に決まった後に、将軍に御目見得する。その後、改易された生駒家に代わって讃岐の東半分を領する高松藩12万石の藩主となる。(実弟である光圀は頼重の実子を養子として水戸藩主に据え、頼重も光圀の実子を養子にして高松藩を継がせている)

アクセス:香川県高松市牟礼町牟礼