監物太郎の碑

【けんもつたろうのひ】

村野工業高校の東門付近にある。現在でも保存会によって管理されており、命日にあたる5月7日には祭礼が執りおこなわれ、また日頃からお参りに訪れる人もかなりあるらしく、新しい花なども供えられていた。

監物太郎頼賢(頼方とも)は、平家の大将・平知盛の家臣であった。世に言う一ノ谷の合戦の際、平家の主力である知盛の軍勢は生田の森に陣取って源氏と戦っていたが、劣勢になると浜へと逃れ船で海上へと退却を始めた。大将の知盛も、嫡男の知章、家臣の監物太郎を伴って海辺へ向かって馬を駆っていた。ところがその途中で源氏方の児玉党と遭遇、鍔迫り合いが始まったのである。

踵を返した監物太郎が先陣を切る敵の首を矢で射抜いて倒す。その隙に、敵方の大将と思しき者が組み合おうと知盛に近づくが、それを助けんと知章が逆に敵に組み付き落として、その首を取った。しかし知章はその場で立ち上がろうとしたところで、別の敵に首を斬られてしまう。監物太郎は、知章を斬った敵に飛びかかって討ち取ると、さらに矢を打ち尽くし、矢が尽きると太刀を抜いて群がる敵を相手に奮戦した。だが多勢に無勢、ついに左膝を射抜かれると、座り込んだまま討死となってしまうのであった。

監物太郎が討死したとされる場所は、現在碑がある場所から離れたところとされる。享保年間(1716-1735年)に儒学者の並河誠所が監物太郎の忠義を顕彰するために、討死の地からより人通りの多い西国街道沿いである現在地に移動させたという。平家方の名のある武将が多数討死した一ノ谷の合戦の古戦場周辺には、いくつもの碑が立っている。しかし監物太郎のような平家の郎党身分の者の碑は稀である。

<用語解説>
◆一ノ谷の合戦
寿永3年(1184年)に起こった源平の戦い。一進一退の攻防から、源義経の“ひよどり越え”の奇襲によって源氏が勝利する。この戦いで平家の名だたる武将が討死し、一族滅亡の要因となった。

◆平知盛
1152-1185。平清盛の四男。清盛死後、軍事の中軸として平家一門の屋台骨を支えた。一ノ谷の合戦では、嫡男・知章と監物太郎の奮戦で逃げ落ちるが、落ち延びた船上で「武蔵守(知章)に先立たれ、監物太郎も失い、心細く世を去りたい気分である。息子がいて、その子が親を討たれまいとして敵と組み合うのを見ながら、どの親であれば子が討たれるのを助けず、こうやって逃れることが出来ようか」とさめざめと涙を流したという。最期は壇ノ浦の戦いで、安徳天皇らの入水を見届けると、碇を担ぎ(あるいは鎧二領を着込み)「見るべき程の事は見つ」と言い残し入水。

◆平知章
1169-1184。平知盛の嫡男。討死の時は数え16才、平敦盛よりも1つ年下であった。

◆並河誠所
1668-1738。儒学者。幕府の命による最初の地誌『五畿内志』を享保19年(1734年)に編纂する。監物太郎の碑にまつわる逸話も、この期間の出来事であったと推測される。

アクセス:兵庫県神戸市長田区四番町8丁目