蘆屋道満塚宝篋塔

【あしやどうまんづかほうきょうとう】

蘆屋道満は播磨国の出身であり、安倍晴明と同時期にいたとされる陰陽師である。史実として、蘆屋道満という特定の人物がいたかの真相は定かではない。だが、安倍晴明が活躍していた時期に“播磨出身の陰陽師”が京都の政界で暗躍していたことは疑いないところである。

『宇治拾遺物語』によると、蘆屋道満(道摩法師)は左大臣・藤原顕光の依頼により、時の権力者藤原道長の暗殺(呪殺)を試みるが、安倍晴明によって阻止され、播磨国へ追放となった。その追放先が佐用だったのである。しかし、佐用に追放された道満であったが、なぜかここでも彼は道長呪殺を試みていた。この呪法を行っていた場所が、まさにこの道満塚のある丘の頂上だったのである。そして、その呪詛を止めるために京都からやって来た安倍晴明とこの地で死闘を繰り広げたのである。

この道満塚の建つ小山に向かい合うようにある丘の上には、安倍晴明を祀る塚が建てられている。かつてはこの両方の塚で祭りがおこなわれていたが、現在は晴明塚のみで執り行われているという。

<用語解説>
◆播磨の陰陽道
陰陽道の思想は中国から伝来してきたものである。当時の朝廷は当然“官学”としてこの陰陽道を取り入れた。それと同時に遣唐使として派遣された学僧が個人的に陰陽道を修得してきたはずである。このような学僧が播磨に多数存在していた可能性が高い。それを如実に表す実例が、姫路にある広峰神社である。この神社の祭神は陰陽道に最も縁の深い牛頭天王であり、京都の祇園社はこの神社から牛頭天王を勧請してきたという。この一例だけでも、この周辺が陰陽道の先進地域であることがわかるだろう。
京都における“播磨の陰陽師”の役目は、公の陰陽師がやらない仕事、即ち政敵などの呪殺であったと推測される。

◆『宇治拾遺物語』(道摩法師の話)
時の権力者藤原道長は、ある外出の折に、飼っていた犬がしきりに門の前で止めようとするのを不審に思った。そこで安倍晴明に占わせてみると、土中から呪物が出てきた。自分以外には道摩法師しか知らない術という晴明は、術を使って道摩法師を見つけだす。法師は連行されると、左大臣・藤原顕光の依頼で術を施したことを白状した。結局、法師は播磨国へ追放となった。

アクセス:兵庫県佐用郡佐用町乙大木谷