一本杉

【いっぽんすぎ】

東北自動車道黒石インターチェンジそばに、一本の杉の巨木がある。自動車道建設の際に邪魔になるとして伐られるところ、地元の反対の声によって数十メートル移動して保存されることになった、曰く付きの木である。

この黒石インターチェンジあたりに、戦国時代末期まで浅瀬石城という城があった。城主は千徳氏。陸奥国を支配していた南部氏の庶流である。この千徳氏最後の当主となった千徳政氏の菩提寺にあったのがこの一本杉であったと伝えられている。

天正10年(1582年)、南部氏24代当主の晴政とその嫡男の晴継が相次いで亡くなると、南部氏は後継者争いが激しくなる。その隙に乗じて津軽地方で独立を企てたのが大浦為信(後の津軽為信)であった。この為信の盟友として南部を離反したのが千徳政氏であった。後の津軽氏の記録によると、為信と政氏は南部家から津軽を簒奪して二分するという約定を取り交わしていたとされる。しかし天正13年(1585年)に南部氏が浅瀬石城を攻めた時に為信が援軍を送らなかったことをきっかけにして、両者の関係は微妙となる。

そして豊臣秀吉の天下統一を経た慶長2年(1597年)、津軽を治めていた津軽為信は、浅瀬石城の千徳氏を滅ぼす。息子の政康が討死したのと同時期に政氏も亡くなったとされ、あるいは父子共々為信によって謀殺されたともいわれる。直後に浅瀬石城は落城し、菩提寺も津軽兵によって蹂躙された。だが、杉の木だけは残され、いつしかこの杉の木には滅ぼされた千徳氏の怨念が宿っていると言い伝えられるようになった。東北自動車道建設の際の移動も、この伝説に基づくものとされている。

<用語解説>
◆津軽為信
1550-1608。南部領の久慈氏の出身とされる。大浦氏の養子となる。南部家の後継者争いに乗じて、津軽の地で独立を画策し、南部領を切り取っていく。その後、豊臣秀吉の小田原陣へいち早く参じて所領安堵を勝ち取る。関ヶ原の戦い以降は津軽藩初代藩主となる。

アクセス:青森県黒石市浅瀬石