與次郎稲荷神社

【よじろういなりじんじゃ】

関ヶ原の戦いにおいて旗色不鮮明であった、常陸の大名・佐竹義宣は慶長7年(1602年)に秋田に転封となった。その時に築かれたのが久保田城である。

築城が始まってから、義宣の許を訪れたのは大きな白狐であった。今度の城造りによって自分達の住処がなくなってしまう。新しい住処を与えてくれるならば殿のお役に立とう、と言う。ならばと義宣は、城内の茶園のそばに住処を与えた。

それからこの狐は「茶園守の与次郎」と呼ばれ、佐竹家の飛脚となって秋田と江戸を6日間で往復して、重宝された。しかしその働きは長く続かず、山形の六田村(現・東根市)で狐と見破られた上、罠を仕掛けられ殺されてしまった(現在でも東根市には與次郎稲荷神社があり、その死についていくつかの話が残されている)。この死を哀れんだ義宣は城内に祠を建て與次郎狐を祀ったのである。

<用語解説>
◆佐竹義宣
1570-1633。常陸の戦国大名である佐竹義重の嫡男。豊臣秀吉の小田原攻め以降に臣従し、54万石の太守となる。秀吉没後は石田三成と誼を通じ、三成の窮地を救っている。関ヶ原の戦いでは東軍西軍のいずれにも属する気配を見せず、東軍戦勝後に秋田20万石に減封される。

アクセス:秋田県秋田市千秋公園内