宇賀神社
【うがじんじゃ】
福岡県と大分県の県境に当たる山国川のほとりに、宇賀神社の小祠がある。行政区域としては福岡県に入るが、伝承としては大分県側の中津城にゆかりの場所である。
豊臣秀吉の軍師・黒田孝高が豊前国6郡を領有したのは天正15年(1587年)のことである。しかしこの地には、転封を拒否したために改易となった城井(宇都宮)氏がまだ勢力を持っており、それらを排除することが重要な役目となっていた。黒田氏は武力によって城井氏を排除しようとするが、逆に大敗を喫してしまう。そこで長期戦に持ち込み、和議に持ち込むことに成功。嫡男黒田長政の嫁という名目で、城井鎮房の娘・鶴姫(千代姫とも)を人質に取ったのである。
間もなく黒田孝高は、和睦の宴と称して城井鎮房を中津に呼び寄せ、中津城内で遂に暗殺に及んだのである。さらに城下の合元寺で供回りを討ち果たすと、城井氏の本拠としていた城井谷を攻め落とし、とうとう城井氏を滅ぼした。そして人質となっていた鶴姫も、もはや用済みとばかりに侍女共々13名、この山国川の河原で磔にして処刑してしまったのである。
この非道な事件は、黒田氏の汚点とも言うべき存在となり、福岡に移封された後も、良からぬことが起こるたびに“城井氏の祟り”とまことしやかに噂され続けた。だが一方で、事件の舞台となった中津の地でも負の遺産として継承されていたのである。
無残な死を遂げた鶴姫を憐れんだ里の者が、遺骸を埋めたとされる地に塚を築いていたのだが、元禄15年(1702年)、この塚から突如として“両足の生えた白い大蛇”が這い出てきた。あまりの不気味な姿に人々は恐れ戦いたが、中津藩の木村文兵衛という鉄砲の名人が3発で仕留めたのである。
その怪物は、頭は亀か蛇のようだが、兎のような耳があり、鯰のような髭もあった。胴体は1丈(3m)ほどで、鋭い爪の生えた4本の足があった。この死体は塩漬けにされて中津城まで運ばれ、さらに江戸にいる藩主の小笠原長円に検分を願うこととなった。
江戸に運ばれた死体を見て長円は満足し、さらに他の藩侯にも見てもらおうと段取りをしていたところ突然発狂し、「妾は宇都宮の息女、鶴姫である。一族は罪なく黒田に殺され、家臣の多くも欺かれ黒田に殺された。妾も腰元と共に山国川の河原で磔となって殺された。七生までも化け物に生まれ変わって中津城の主を呪い殺す」と叫び続けたのである。さらに国許では怪物を退治した木村文兵衛が口から血を吐いて狂死した。
慌てた重臣は、この怪物が城井氏の怨霊であると認め、江戸から再び中津へ送り返して丁重に葬り、その横に石祠を築き、蛇神ということで宇賀大明神として祀ったのである。この甲斐があってか、小笠原長円の狂気は収まった。これが小犬丸にある宇賀神社の始まりである。
中津藩はその後、小笠原氏から奥平氏へと代わるが、文化9年(1812年)、時の藩主であった奥平昌高が鶴姫の話を聞いて、宇賀神社の隣に「醍醐経一字一石塔」を建て、菩提を弔っている。宇賀神社は、明治になって貴船神社を合祀し、正式には宇賀貴船神社と称するが、今なお宇賀大明神を祀る石祠が残されている。
<用語解説>
◆城井鎮房
1536-1588。城井(豊前宇都宮)氏16代当主。城井谷地域の領主として有力大名に転々と属する。秀吉による九州統一後に転封を拒否したため中津城内にて斬殺される。怪力無双の弓の名手と言われた。
◆小笠原長円
1676-1713。中津藩小笠原家第4代藩主。悪政を敷いた兄が改易され、領地半減の措置を受けて藩主となる。しかし自身も悪政を敷き、後年は政治も顧みなくなり、遊興に浸った。中津藩は次代で無嗣改易となる。
◆奥平昌高
1781-1855。中津藩奥平家第5代藩主。蘭学好きの藩主として知られ、オランダ語も解したとされる。後年シーボルトとも交流を深める。
◆宇賀神
穀物神・福の神とされ、弁財天と同一視される。その姿が“人頭蛇身”であり、翁や女性の顔を持つ。
アクセス:福岡県築上郡吉富町小犬丸