安部清明大神碑

【あべのせいめいたいしんひ】

『吾妻鏡』の治承4年(1180年)10月9日の項には次のような内容が書かれている。

“源頼朝の鎌倉の館を建てるが、出来上がるまでは山ノ内の兼道という有力者の館を移築して仮屋とする。この館は正暦年間に建てられたが、一度も火災に遭ったことがない。晴明朝臣が鎮宅の符を押した ためである。”

この記述が、安倍晴明が鎌倉へ赴いたことを示す証拠であると言われている(正暦年間は晴明75歳頃)。ではこの館はどこにあったものなのだろうか? 最も有力な場所とされているのが、鎌倉街道とJR横須賀線が交差する場所である。ここには小さいながらも【安部清明大神】と刻まれた碑があり、何らかの関連があると考えられる。

この石碑は明治39年に作られたものであり、またかなりの年月に渡って放置されていたらしい。この碑の隣に<五山>と いう蕎麦屋があるが、そこの主人が偶然発見して祀ったという話である。

不思議なのは、碑の奥に広がる空き地である。観光地として一等地にありながら、なぜか駐車場として放置されている。実は、地元の人によると、この場所に建物が建たないのは“頻繁に起こる火事”のせいであるらしい。とにかく建てるたびに火事に遭うらしい。伝承とは逆の現象が起こっているのだが、裏を返せば【鎮宅霊符神】の札を貼らねばならないほどの場所であり、現在はその札が散佚してしまったために火事が起こりやすくなっていると想像することも可能だろう。

<用語解説>
◆『吾妻鏡』
鎌倉時代末期に成立した歴史書。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝から6代将軍の宗尊親王まで(1180-1266)の出来事を編年体で著している。鎌倉幕府の歴史を見る上で第一級の史料。

◆鎮宅霊符神
凶宅に住みながら裕福な劉名進が神より授かった霊符を、漢の文帝が広めたのが嚆矢とされる。家内安全・無病息災に効験がある。通例では【鎮宅七十二霊符】として72枚の霊符でまとめられている。その中心にあるのが鎮宅霊符神である。日本伝来後、北辰北斗信仰と結びつき、陰陽道において発展する。御姿は北辰北斗になぞらえ、玄武に乗っている。

アクセス:神奈川県鎌倉市山ノ内