蓮華寺
【れんげじ】
創建は推古天皇23年(615年)。聖徳太子の開基とされ、当初の寺名は法隆寺であったとされる。しかし鎌倉時代後期に落雷によって焼失。そこで、当地を治めていた地頭の土肥元頼が、一向上人を招いて再興したとされる。蓮華寺の名もその時に改められたとする。
境内の奥に数多くの五輪塔が整然と並べられている。その数は約430基と言われており、鎌倉幕府滅亡の際の悲劇を伝えている。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐を脱出して再挙兵をしたことを受けて、鎌倉から上洛した足利高氏(尊氏)であったが、京都に着くと後醍醐天皇からの誘いに応じて反幕府の兵を挙げる。そして反旗を翻してからわずか10日足らずのうちに、同調した近江の佐々木道誉などと共に六波羅探題を攻め落としたのである。
京都における幕府の出先機関である六波羅探題は、この足利高氏らの攻撃にほとんど戦いらしいこともできず、鎌倉に向けて退却を余儀なくされた。六波羅探題の南北それぞれの責任者であった北条仲時(北方)と北条時益(南方)は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を連れ出して中山道を通って逃走しようとした。しかし既に鎌倉方の残党狩りが始まっており、時益は早々に討死した。何とか美濃との国境に近くまで辿り着いた仲時であったが、残党狩りの攻撃は激しく、また高氏に与した佐々木道誉が行く手を阻んでいた。これ以上東へ逃げることは不可能であると悟った仲時は、番場宿にある蓮華寺に入ると、本堂前で一族郎党432名が全員切腹して果てたのである。境内は凄惨を極め、流れ出た血が川のようになって流れたとされ、今でも“血の川”の伝承が残されている。
整然と並べられた五輪塔群には、現在、北条仲時の墓は含まれていない。江戸時代、この地を治めていた彦根藩主が馬に乗って蓮華寺を参拝したのだが、その夜の夢の中で「馬上から見下ろすとは何事ぞ」と仲時にきつく怒られたため、恐れおののいた藩主が近くの山の山頂辺りに墓を移し替えたのだという。
<用語解説>
◆一向上人
1239?-1287?。浄土宗の僧。修行として諸国を巡り、また踊り念仏を行ったため、時宗の一遍上人と混同されることがある。また独自の布教方法であるため、“一向宗”と呼ばれていたこともある。蓮華寺再興の後はこの地に留まり、最期は立ち往生して亡くなったとされる。
◆北条仲時
1306-1333。北条氏の一門。元徳2年(1330年)、六波羅探題北方として京都に赴任。翌年、後醍醐天皇が起こした反乱(元弘の変)を鎮圧し、天皇を配流する。また護良親王や楠木正成らを追討した。
仲時らの自害は、その13日後に起こった北条高時らが鎌倉で自害して幕府が滅亡したものに次ぐ大規模の集団自決の事件とされる。
◆番場宿
中山道62番目の宿場町。古くは奈良時代から宿駅として発展していた。その後、長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公である“番場の忠太郎”の出身地とされ、番場宿は有名となった。蓮華寺にも“忠太郎地蔵”が建立されている。
アクセス:滋賀県米原市番場