蚕影神社

【こかげじんじゃ】

その名にある通り、養蚕の神として関東甲信地方で大いに崇敬された神社の総本社である。創建の由来は、第13代成務天皇の御代、国造として派遣された忍凝見命孫(おしこりみのみこと)と阿倍閇色命(あべしこのみこと)が筑波大神に奉仕し、さらに豊浦の地に稚産霊神(わくむすびのかみ)を祀ったことから始まる。主祭神となる稚産霊神はその頭から蚕と桑が生じたとされ、養蚕の神として相応しい存在である。また時代が下って、第29代欽明天皇の御代、皇女の各谷姫が筑波山まで飛来して神衣を織り、その製法を人々に伝えたともされる。いずれにせよ、この筑波が養蚕と絹織物発祥の地であるとし、その象徴として蚕影神社があったと考えて良いだろう。

上垣守国が著した『養蚕秘録』の中には、養蚕伝来の伝説として“金色姫”の話が紹介されている。

21代雄略天皇の御代の頃、天竺に旧仲国という国があり、霖夷大王が治めていた。その娘に金色姫がいたが、継母はそれを疎んじ亡き者にしようと企んだ。継母は大王の留守中に姫を師子吼山へ棄てるが、山に住む獅子王が宮殿に送り届けて失敗。次に鷹群山に棄てるが、鷹狩りの視察に来た家来によって救われる。さらに海眼山という孤島に流したが、漂流してきた漁師に助け出された。そして遂には宮殿の庭に埋めてしまうが、100日後に光を放ちだしたために不審に思った王が掘り返して発見した。

4度の危機を知った大王は、これ以上城に置いてもいずれ姫は殺されると思い、桑の木で造ったうつぼ舟に姫を乗せ、海に流してしまった。そして遠く離れた常陸国の豊浦の浜に流れ着いたのである。

うつぼ舟の姫を救ったのは、漁師の権太夫夫婦であった。姫は夫婦と暮らし始めるが、やがて病を得て亡くなってしまう。亡骸は唐櫃に納められたが、その夜、夫婦の夢枕に姫が立ち、「私に食べ物を下さい。後で恩返しをします」と言う。夫婦が唐櫃を開けると、亡骸の代わりにたくさんの見慣れぬ虫が入っていた。姫が乗った船が桑で出来ていたので、桑の葉を与えると虫はそれを食べ始めた。

しばらくすると虫たちは葉を食べることをやめ、頭を上げて震えるばかりとなった。心配する夫婦の夢枕にまた金色姫が現れ、継母に命を狙われた受難のために休んでいるだけであると告げた。そうして虫たちは4度の休みを経て、繭を作り出したのである。さらに繭が出来た時、権太夫夫婦は筑波の影道(ほんどう)仙人から糸を取り出すことを教わった。これが本邦初の養蚕業となったのである。権太夫夫婦はこの養蚕によって富を得て、やがて金色姫の御霊を祀る社を豊浦に建てた。これが現在の蚕影神社であるという。

明治以降、養蚕業は日本の主産業として大いに発展した。それと同時に蚕影神社への信仰は絶大なものとなった。しかし戦後、養蚕業そのものが衰退すると、参拝者も激減した。かつての賑わいの痕跡を残しながら、今の参道や境内は閑寂そのものである。

<用語解説>
◆稚産霊神
『古事記』では、食物の神である豊受大神の親とされる。また『日本書紀』では、頭に蚕と桑が生じ、へそに五穀が生じたとされる。養蚕・穀物の神とされる。

◆上垣守国
1753-1808。但馬国の出身。陸奥福島で蚕種を仕入れ、但馬・丹波・丹後に養蚕業を普及させる。後に庄屋。

◆『養蚕秘録』
享和2年(1802年)刊。全3巻。蚕の飼育から製糸に至るまで、養蚕に関する技術や知識を図解した実用書。後年シーボルトがオランダに持ち帰り、ヨーロッパの養蚕技術向上のために利用している。

アクセス:茨城県つくば市神郡