源氏橋
【げんじばし】
平治元年(1159年)、源義朝は京都で平清盛に敗れると、勢力圏である関東へ逃れるべく東へ向かった。途中で息子達とも散り散りになりながらも、何とか美濃国の青墓(現・大垣市)にまで辿り着く。青墓では、源氏と姻戚関係を持つ大炊兼遠に匿われることになる。しかしさらに東へ逃れるために、乳兄弟の鎌田政清の舅である長田忠致を頼って川を下ろうとした。そこで義朝主従が柴舟に乗ったのが、この源氏橋のたもととされる。
現在では人が乗る船など浮かべることも出来ないような小川に、石造りの橋は架けられている。そして源氏の名にふさわしく、その家紋である笹竜胆が橋に彫られている。
偶然、この橋をよく知る古老の話を聞くことが出来たが、かつてはもう少し離れた場所に橋があったのだという。その移転に際して、橋のほかに、義朝が鎧を掛けたとされる鎧掛け榎も植え替えたが、結局枯れてしまったとのこと。さらに弁当の箸の代わりに使った蘆が後に生い茂ったという蘆塚をもとに植えられた蘆も、結局根付かないまま朽ちてしまったという。今は、石造りの橋と、移動させた当時に掲げられた案内板が残るだけである。
<用語解説>
◆源義朝
1123-1160。河内源氏の棟梁。東国に下って、当時凋落していた源氏再興をめざす。保元の乱で平清盛と共に勢力を得るも、3年後の平治の乱で敗北。尾張国の野間で、家臣だった長田忠致に暗殺される。後に鎌倉幕府を興す源頼朝は遺児。
◆大炊兼遠
1105-1161。青墓宿の長者。祖先は天武天皇の家臣で、壬申の乱の功績で美濃国に在するようになったとされる。娘が源義朝の側室となったため、源氏とは姻戚関係になる。
◆鎌田政清
1123-1160。源義朝の家臣。母が義朝の乳母であったため、乳兄弟となる。平治の乱後、舅の長田忠致を頼るが、主人の義朝は暗殺され、自らも酒を呑まされた上に殺される。妻(忠致の娘)は政清が殺されたのを知ると、川に身投げして死んだという。
アクセス:岐阜県養老郡養老町明徳