泣塔
【なきとう】
現在は鎌倉市所有の土地となっているが、かつてはJR東日本大船工場の敷地であった場所にある。鎌倉市文化財に指定されている(戦前は国の重要美術品にも指定)宝篋印塔である。
今でもこの塔の周辺にはフェンスが張り巡らされており、入口には南京錠が掛けられている(鎌倉市に問い合わせると開けてもらえるが)。指定文化財にしても、かなり物々しい印象である。そしてこの塔自体が奇怪な伝承を多く持っているために、一種異様な空間を形成していると言える。
銘によると文和5年(1356年)に建てられた石塔であり、その背後に“やぐら”が設けられていることから、おそらくこの年号より少し前に付近で複数の人間が亡くなった出来事、具体的に言えば、新田義貞と北条守時が戦った洲崎合戦の北条方供養碑であると考えられている。即ちこの地は多くの人の血が流された、しかも鎌倉幕府滅亡という悲劇的な戦いの場なのである。
そしてこの“泣塔”という奇妙な名であるが、次のような伝承が残されている。この石塔を近くの青蓮寺に移動させたところ、夜な夜なこの石塔からすすり泣きが聞こえたという。そこで元の場所に帰りたいのであろうということで、元に戻したと言われている(あるいは住職の夢枕で「帰りたい」と訴えたとも言われる)。このために“泣塔”と呼ばれるのである。
しかしこの石塔にまつわる怪異譚の真骨頂は、この石塔のある敷地を所有すると不幸に遭うとか没落するという話である。特に有名なものは、昭和17年(1942年)にこの地に横須賀海軍工廠深沢分工場が設立されることとなり、用地を買収して泣塔周辺も更地にする計画だったが、塔を移動しようとすると怪我人や死者が出て、さらに工事現場で怪事が度々起こったために取り除くことをやめたとという話である(地域住民からも祟りを恐れて嘆願があったという)。そして昭和20年(1945年)に終戦を迎え、海軍は解体されるのであった。
海軍の次に泣塔を含む土地の所有者となったのは、国鉄。だが、国鉄も昭和62年(1987年)に分割民営化されて消滅した。この2つの大組織の末路から、泣塔の負の伝説がまことしやかに噂されたのである(次の所有者であるJR東日本鉄道は平成18年(2006年)に土地を手放したために没落を免れたとの噂もある)。
その他にも近隣に幽霊が出るとか、泣塔を訪れた後には必ず幽霊に遭遇するなど、あまり良い噂はない。しかしこれらの噂によって、泣塔は周囲の変化の波にも耐え、かつての風景のまま保存されてきたことも事実である。南北朝時代の宝篋印塔としても最も美しいものの一つであり、時代の波に取り残された一画は、一見の価値があると思う。
<用語解説>
◆重要美術品
昭和8年(1933年)に制定された法律で認定された物件。海外へ輸出する際に文部大臣の許可が必要となる美術品を指す。後に文化財保護法により法律そのものは廃止されるが、現在でも効力はあるとされる。
◆やぐら
特に鎌倉周辺で多く見られる、武士などの支配層の人々を埋葬する横穴式の墳墓。鎌倉時代から室町時代にかけて多く造られる。
◆北条守時
1295-1333。北条氏一門の赤橋流の出身。第16代執権(鎌倉幕府最後の執権)。嘉暦元年(1326年)執権となるが、政治的権力は得宗家(北条家嫡流)の北条高時と内管領の長崎高資に握られ続ける。妹婿が足利高氏(尊氏)であったため、高氏が倒幕へ叛旗を翻して以降、幕府内での立場が悪化。死を覚悟して身の潔白を示すために、鎌倉へ攻め入ろうとする新田義貞の軍勢に対して先陣を切って攻撃。洲崎合戦にて自刃する。
◆洲崎合戦
鎌倉へ攻め入る新田義貞の軍勢と、それを防ぐ北条守時との戦い。巨福呂坂から出撃した北条守時は一日一夜に65回の突撃を繰り返し、化粧坂にあった新田義貞の陣近くの洲崎まで至る。しかし兵力の大半を失っており、退却してまた謀反の疑いをかけられることを嫌い、守時はここで部下90余名と共に自刃する。新田義貞の鎌倉攻めでも屈指の激戦と言われる。
アクセス:神奈川県鎌倉市寺分上陣出