栖岸院 お菊の墓

【せいがんいん おきくのはか】

お菊さんの怪談と言えば『番町皿屋敷』である。これの元ネタは『皿屋敷弁疑録』という本であり、大まかな話は以下の通りである。

事件が起こったのは承応2年(1653年)正月二日。火付盗賊改役(1665年創設)の青山主膳が、盗賊・向坂甚内(1613年刑死)の娘・菊を役宅にて下女として使っていたが、その菊が誤って家宝の皿を割った。青山は菊の中指を切り落とし、手討ちにするために監禁していたが、菊はその直前に井戸に身を投げて 自害する。その後、その井戸から菊の亡霊が現れては皿の数を数え、青山の本妻が産んだ子の中指が欠けているなどの怪異が続き、青山家は取り潰しとなる。しかし井戸の幽霊は消えず、小石川伝通院の了誉上人(1420年没)の力によってようやく成仏することになる。

年代を見ればこの話の信憑性など一挙に吹き飛んでしまうが、とにかくこのような話が伝承され、『番町皿屋敷』として人気を博した訳である(ちなみに“番町”というのは、青山主膳の屋敷が【牛込御門内五番町】にあったとされるためである)。

ところがほぼ虚構に近い話であるにもかかわらず、このお菊さんの墓が存在するのである。場所は永福の栖岸院。栖岸院は伝通院と同じく浄土宗の寺院であり、江戸期には住職が将軍へ直接お目見えできるほどの寺格を持っていたという。そして大正時代に現在地へ移転する前は麹町にあったのである。麹町と番町とはほぼ地続きであると言ってもおかしくないほどの距離にある。

栖岸院にあるお菊さんの墓は丁重に扱われているが、現在のところ特別にそれを喧伝するような表示案内はない。『番町皿屋敷』の話はあくまで伝説のたぐいであるということなのだろう。

<用語解説>
◆江戸の皿屋敷伝承
『番町皿屋敷』以外にも、皿屋敷伝承が残っている。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社)によると、承応2年に麻布桜田町で、皿を割った下女が手討ちに遭い、その幽霊が出たという記録が残されている(当事者の遠山氏は騒動のために浪人となるが、後に南部藩で取り立てられ、問題の皿は現在盛岡市の大泉寺にある)。

アクセス:東京都杉並区永福