東光寺 写楽の墓

【とうこうじ しゃらくのはか】

東光寺は眉山東麓の街中にあり、江戸時代にこの地に移転してきた浄土真宗の寺院である。この寺の墓地にあるのが、謎の浮世絵師と呼ばれる東洲斎写楽の墓である。何故徳島に写楽の墓があるのか、実はそれ自体も謎に満ちた経緯をたどっている。

江戸時代に書かれた書物で、写楽の素姓について言及しているのは『増補浮世絵類考』ただ1冊である。そこに“写楽 俗称は斎藤十郎兵衛 八丁堀に住む 阿波の能役者 号は東洲斎”と記載されている。この斎藤十郎兵衛なる人物が果たして実在の人物であるのか、ここから話が始まる。結論から言うと、斎藤十郎兵衛は江戸の阿波藩江戸屋敷に勤め能役者であり、八丁堀地蔵橋あたりに住んでいた。生没年も平成9年(1997年)に埼玉県越谷市の法光寺で見つかった過去帳から判明し、宝暦13年(1763年)に生まれ、文政3年(1820年)に亡くなっている。しかしながら、この人物が本当に東洲斎写楽であったかどうかの確証は全くないのである。

東光寺にある墓も、斎藤十郎兵衛の墓であることから「写楽の墓」であるとされており、はなはだ怪しい話になっている。さらに付け加えるならば、この墓が本当に斎藤十郎兵衛のものであるかも非常に不確かな話になっているのである。

この墓を写楽の墓であると認めたのは、浮世絵研究家であった仲田勝之助であるが、その根拠となったのが東光寺にあった過去帳である。そこにあった“素月院釋清光居士 天保14年8月12日没”とされる人物が斎藤十郎兵衛の戒名であるとして「写楽の墓」としたのである。ところが、この過去帳の出所も怪しく(斎藤十郎兵衛は阿波藩のお抱え能役者であるが、阿波在住の人物ではなく、生涯をほぼ江戸で暮らした人物であると考えられる)、さらに約70年の時を経て本当の斎藤十郎兵衛の過去帳が発見されるに及び、東光寺の写楽の墓は一体誰の墓なのか見当がつかなくなったのである。

ただ逆説的なことを言えば、<斎藤十郎兵衛が間違いなく東洲斎写楽である>という確証がないため、これが斎藤十郎兵衛の墓でないと否定されても「写楽の墓」であることは否定出来ない。何とも収拾のつかない話であるが、これもまた伝承の面白味である。

<用語解説>
◆東洲斎写楽
生没年不明。寛政6年(1794年)5月から約10ヶ月の間に約140点の作品を出しただけで消えてしまった謎の浮世絵師。大胆な役者絵を得意としたが、役者の特徴を正確に捉えた筆致であったため当時の評判はあまり芳しくなった。その後明治の終わり頃にドイツの美術研究家のユリウス・クルトが著書で称賛したことから再評価され、それがきっかけで日本でも写楽研究が進んだとされる。

◆『浮世絵類考』
浮世絵師の経歴などを紹介した書籍。寛政2年(1790年)に太田南畝が著し、その後附録・追考・補記・増補を繰り返し、慶応4年(1868年)に最終的な形となる。太田南畝をはじめ、山東京伝や式亭三馬らの当代の名だたる文人が加筆編集に加わっている。なお写楽の記述は、弘化元年(1844年)に斎藤月岑(祖父・父と共に『江戸名所図会』の作者の一人)が加筆した『増補浮世絵類考』にある。

◆仲田勝之助
1886-1945。美術評論家。浮世絵研究家。写楽の研究家として有名。

アクセス:徳島県徳島市寺町