吉川興経首塚

【きっかわおきつねくびづか】

吉川興経は、安芸の国人・吉川氏の14代当主である。当時の吉川氏は安芸北部に地盤を持つ有力な豪族の一人であり、毛利氏と同様に、中国地方の覇を争う大内氏と尼子氏の抗争の渦に巻き込まれた。興経は武勇でその名を馳せ、強弓の使い手として怖れられていたという。ただし政治的な器量に欠けており、特に天文11年(1542年)の尼子攻めの最中に味方の大内氏を裏切り、全軍総崩れの大敗のきっかけを作って、周囲の信望を失う。そしてこの一件で家臣団も姻族である毛利方になびき、毛利元就の次男・元春を養子に迎えることになる。さらに天文19年(1550年)、興経は強制的に隠居とされ、さらに元春擁立の後顧の憂いを断つために隠居所にて暗殺されるのである。享年42歳(あるいは32歳とされる)。

興経の墓は、暗殺された隠居所であった場所にあるが、その首塚は吉川氏の菩提寺であった常仙寺の跡にある。伝承によると、興経の首は隠居所からはるばる愛犬によって運ばれてきたという。実際、この首塚のそばには「犬塚」と呼ばれる小さな塚が残されているが、不思議なことに、この犬塚の方が興経の首塚よりも上に作られている。だが、これにも伝説が残されており、首をくわえてきた犬はこの場所で息絶え、その時に首が転がり落ちてしまったために、今のような位置関係になってしまったのだと。

アクセス:広島県山県郡北広島町中山