燈明寺畷新田義貞戦没伝説地

【とうみょうじなわて にったよしさだ せんぼつでんせつち】

建武3年(1336年)の湊川の戦いに敗れ京都に戻った新田義貞は、攻め込む足利尊氏の入京に際しさらに北陸へ退却する。そして越前で守護職の斯波高経と激戦を繰り返すことになる。

最初の拠点である金ヶ崎城を落とされるものの、巻き返しを図って越前府中を奪い取り、さらに金ヶ崎城も奪還に成功する。その中で延元3年(建武5年:1338年)7月2日、寝返った平泉寺衆徒を討ち果たすべく、義貞は味方の督戦に向かった。その数わずか50騎ばかり。ところが燈明寺畷に来たところで、敵の援軍300騎と遭遇し乱戦。その最中に馬を射られて落馬、起きあがったところを眉間に矢を受けて戦死するのであった(討ち取った側も首級を取ってからようやく義貞であると気付くほどの、偶発的な戦いであったという)。

そして月日が経ち、明暦2年(1656年)、この地を耕作していた百姓の嘉兵衛が古い兜を掘り当てた。芋桶に使っていたところ、福井藩の軍学者・井原番右衛門がそれを新田義貞着用の兜と鑑定した。これを受けて、藩主の松平光通はこの発見の地を義貞戦没地と認定し、碑を建てたのである。そしてこの地は「新田塚」という名で呼ばれるようになったのである。

明治3年(1870年)、戦没地に新田義貞を祀る祠堂が建てられ、同9年(1876年)には義貞を祭神とする藤島神社が建立され、掘り出された兜は神社に奉納された。後に藤島神社は現在地に移転し、現在は祠堂だけが新田塚に残されている。

兜の真贋であるが、甲冑研究の第一人者である山上八郎によると、藤島神社に奉納されたものは戦国期の特徴を持つものであり、新田義貞が着用した可能性は極めて低いとされる。ただ兜が土中より掘り出されたという事実自体はあったとする見解を示している。

<用語解説>
◆新田義貞
1301-1338。姓については、源義家の四男・源義国の子である義重が新田姓を名乗ったのが始まりとされる。鎌倉幕府に反旗を翻して関東で挙兵、幕府を直接滅亡させる大功を立てる。しかし後醍醐天皇の建武の新政においては、常に足利尊氏に後れを取る扱いを受け、対立。尊氏が後醍醐天皇を裏切った際は、天皇方に味方して南朝の有力武将となる。

◆福井藩
藩祖は、徳川家康の次男・結城(松平)秀康。光通は4代藩主である。徳川家は新田氏を祖先と称しており、藩主による義貞戦没地の認定は、このような事情も作用していると十分考えられるだろう。

アクセス:福井県福井市新田塚町