景政功名塚

【かげまさこうみょうづか】

金沢公園は、奥州清原氏の内紛を端に起こった“後三年の役”最後にして最大の合戦地である、金沢柵の跡地に設けられた史跡公園である。その公園入口付近に景政功名塚がある。案内板に従って小高い丘を登ると、覆い屋とその中にある杉の巨木の一部が見えてくる。しかし巨木は昭和23年(1948年)に火災によって枯死しており、ほぼ皮一枚を残した状態で保存されているだけである。

この塚の名である“景政”とは、鎌倉権五郎景政のことである。わずか16歳でこの戦いに参加した景政の武功は『奥州後三年記』に詳しい。金沢の柵の戦いにおいて最前線で戦っていた景政は、敵の矢で右目を射抜かれ負傷する。その傷は首を貫通するばかりであったが、景政はその敵に矢を射かけ討ち取ってから陣に戻ったという。陣に戻ってから刺さった矢を抜こうと、同輩の三浦平太郎為次が景政の顔を土足で踏んだところ、景政は激怒。横倒しに倒れたまま刀を抜いて、為次を突き刺そうとした。「弓矢に当たって死ぬのは武士としては本望である。しかし生きたまま顔を足で踏みにじられるのは堪えかねる。汝を仇として死のうと思う」と景政が言い放ったため、為次は丁重に矢を抜いてやったという。戦いに命を懸け、名誉を重んじる景政の言動は“武士の鑑”として賞賛され、大いに面目を施したのであった。

このような功績の故か、総大将の源義家は景政に戦後の処理として敵方の遺体を集めさせ塚を築くように命じた。それが現在に残る景政功名塚であるとされる。

<用語解説> 
◆鎌倉権五郎景政
1069-?。平安末期の武将。桓武平氏の一族であり、父の代より鎌倉氏を名乗り、現在の鎌倉一帯を領有していたとされる。子孫には大庭氏や梶原氏などが挙げられるが、正確な血縁関係は不明。
景政は、後世において武神として祀られ、伝説的な英雄として脚色されることにある。特に有名なものは、歌舞伎十八番の一つである「暫」である。

◆後三年の役
1083-1087に奥州で起こった戦乱。前九年の役で勢力を持った出羽の清原氏の後継者争いから端を発する。この内紛に介入したのが源義家であり、最終的には清原清衡(後の藤原清衡)と家衡兄弟の家督争いとなり、義家を味方とした清衡側が勝利する。朝廷の裁断により、これは清原氏の私闘とされ、源義家は恩賞に与れなかった。しかし戦闘に参加した関東武士には私財を与えて労に報いたため、関東での源氏の基盤が確立したとされる。

アクセス:秋田県横手市金沢