縁切榎

【えんきりえのき】

中山道最初の宿場町として栄えた板橋にあって、名所と呼ばれたのが縁切榎である。その名の通り「縁切り」にご利益があるとされており、特に悪縁を切って良縁を授かるとして庶民の信仰を集めている。願を掛ける者は、この木の樹皮を削り、煎じて飲ませると良いとされている。

この榎の木が「縁切榎」と呼ばれるようになったかについては、定説がある。江戸時代、このあたりに旗本の屋敷があったが、この垣根の際に榎と槻の木が並んで生えていた。この2本の木が目立っていたため、誰が言うともなく「えのきつき」と呼び出し、それがいつしか詰まって「えんつき」、即ち「縁尽き」の語呂合わせが広まり、その後榎だけが残ったということらしい。初代の榎は明治期に焼けてしまい(一部は現地に保存されている)、現在は2代目を経て3代目の榎となっている。

この木にまつわる最も有名な逸話は、和宮降嫁の際に「縁切り」の噂を聞き及んで、この木が見えないように迂回路を造らせて行列を通したという話。この噂にはさらに尾ひれがついて、和宮の行列が通る時には榎を菰筵で覆い隠したもされる。実際、縁切榎については「嫁入りの行列が通ると縁付かない」という言い伝えがあるが、10代将軍徳川家治に嫁いだ五十宮倫子の場合も迂回路を通ったという記録があり、和宮の時だけ特別ということではなかったのが真相らしい。

<用語解説>
◆皇女和宮
1846-1877。第120代仁孝天皇の八女。第121代孝明天皇の異母妹。第122代明治天皇の叔母にあたる。幼少の折に有栖川宮と婚約するが、公武合体運動の影響を受けて、14代将軍の徳川家茂に降嫁する。内親王が将軍家へ降嫁する事例は初めてであり(婚約は7代将軍家継の時にあったが、夭折のため降嫁までは実現せず)、多くの謎めいた噂がある。

アクセス:東京都板橋区本町

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