北山十八間戸
【きたやまじゅうはちけんと】
東西に38メートルの長さを持つ建物である。中は18の部屋に仕切られており、1つあたりの部屋の広さは約2畳ほどのものである。これが鎌倉時代に建てられた、癩者(現在のハンセン氏病患者)救済・保護の施設、北山十八間戸である。
建設に携わったのは、忍性である。忍性は「文殊菩薩はこの世に貧者・病者の姿となって現れる」という文殊信仰に従って救済事業を展開した。寛元元年(1243年)に出来た北山十八間戸もその事業の1つとして建設されたとされる(一説では、悲田院や施薬院を作って貧者救済をおこなった光明皇后にまで起源を求めるともされている)。
この近辺は忍性の救済活動の拠点の1つであり、若き頃の忍性は、奈良坂に住む癩者のために数年間毎日のようにおぶって奈良の町まで往復していた。その癩者が亡くなる時「再生したら、徳に報いるために召使いとなります。その証として顔に瘡を残します」と言った。後年、門弟の一人に顔に瘡のある者があり、忍性はその癩者の生まれ変わりであると信じていたという。
癩者に衣食住を提供していた北山十八間戸は、松永久秀による東大寺焼き討ちの時(永禄10年:1567年)に全焼するが、後に再建され、元禄6年(1693年)に現在地に移された。そして明治になって廃されるまでに約18000人を収容したと記録されている。
<用語解説>
◆忍性
1217-1303。真言律宗の僧。師である叡尊と共に、奈良を拠点に非人救済をおこなう。後に鎌倉へ下向、執権・北条重時らの信頼を得て、極楽寺において非人救済をおこなう。
◆光明皇后
701-7601。藤原不比等の娘。聖武天皇皇后。深く仏教に帰依し、悲田院・施薬院の造営などの慈善事業をおこなう。また重傷の癩者の膿を自ら吸い出すと、その癩者は如来の化身であったという、非人救済にまつわる伝説などが残る。
アクセス:奈良県奈良市川上町