中野竹子殉節之地
【なかのたけこじゅんせつのち】
新潟と会津を結ぶ越後街道が会津若松城下で湯川と交わる場所に架けられた柳橋は、別名“涙橋”と呼ばれる。この橋の北側にある河川敷あたりが会津藩の刑場で、罪人が家族と最期の別れをする場所であることからその名が付いた場所である。同時にこの橋周辺は会津藩城下の外れに当たる場所であり、ここで慶応4年(1868年)8月25日に会津藩と長州・大垣藩とが一戦を交えた“涙橋の戦い”があった。この激戦地から北へ約500mほど、刑場跡地を越えた一画に、石碑や袴姿で薙刀を構えた女性の像が立つ場所がある。これが涙橋の戦いで討死した中野竹子の殉節地と呼ばれる場所である。
竹子は会津藩江戸藩邸の生まれ。幼少の頃から才に秀で、書は大名家の祐筆を務めるほど、薙刀も免許皆伝の腕前であった。しかし鳥羽伏見の戦いで会津藩が大敗して朝敵の汚名を被ると、竹子は家族と共に会津へ退去する。
そして8月23日、ついに会津へ薩長の軍勢が攻め込んできたとの早鐘を聞いて、母こう子、妹優子と共に籠城のため城へ駆けつけるが間に合わず、その直後に依田まき子・水島菊子・岡村すま子らと合流する。彼女らは、松平容保の義姉・照姫が坂下に滞留中との報を聞いて坂下へ移動した。しかしそれは誤報であったため、当日は法界寺で宿泊。翌日、敵迎撃のため坂下を通過中の会津軍と遭遇すると、彼女らは参戦を願い出る。最初“女を戦に加えるのは敵に誹りを受ける”と拒否していたが、聞き届けなければここで自害すると主張したため、娘子軍として先陣の部隊に加えられた。
25日午前、柳橋に陣を固める長州・大垣藩の軍勢に会津藩が攻撃を仕掛ける。涙橋の戦いの始まりである。最初は銃撃と砲弾による交戦であったが、次第に兵同士の接近戦へと移行する。そして夕刻になって中野竹子ら娘子軍が前線に立って戦いを始めた。敵は女性が戦っているのを見るや生け捕りにしろと殺到する。しかし竹子らの薙刀捌きに接近戦は被害が大きいと判断、すぐに銃撃で応戦した。そして一発の弾が竹子の額に命中、ほぼ即死であったという(一説では胸に被弾し介錯を頼んで絶命)。母のこう子が猛然と敵を蹴散らす中、妹の優子が竹子の介錯をして首級を渡すことなく退却したのである。
戦いに臨んで、竹子は薙刀に辞世の句をしたためた短冊を結びつけていたという。
もののふの 猛きこころに くらぶれば 数にも入らぬ 我が身なれども
首級は坂下の法界寺に葬られ、現在もここに竹子の墓がある。



<用語解説>
◆娘子軍
“娘子軍”という言葉自体は、女性だけの軍勢を指す普通名詞である。中野母娘や依田姉妹ら参加した者は“娘子軍”と呼び、史書には“婦人隊”などと記述される。この娘子軍は組織立った部隊ではなく、城下に残った顔見知りの士分の家の女性が自然発生的に集結して出来たものである。最年長は中野こう子の44歳、最年少は中野優子の16歳であったとされる。しかしその活動はこの涙橋の戦いのみで、帰陣後に家老より「大筒小筒の戦ゆえ」と説得され、参戦を断念したとされる。そして数日後城内の籠城軍に合流し、主に後方支援の任にそれぞれが当たっている。
◆法界寺
会津坂下町にある寺院。中野竹子の墓がある他、竹子愛用の薙刀が納められている。
アクセス:福島県会津若松市神指町黒川