小茂田浜神社

【こもだはまじんじゃ】

対馬の西岸部にある漁港の一つが小茂田である。その海岸沿いにあるのが小茂田浜神社である。旧社格は県社、かつては帥大明神社(いくさだいみょうじんしゃ)と呼ばれ、正平2年(1347年)には現在地に置かれた神社である。

文永11年(1274年)、フビライ・ハンの治める元及び高麗の兵約3万が海を渡り九州に攻め入った。いわゆる“文永の役”である。この戦いの緒戦となったのが対馬であり、その最初の上陸地となったのが小茂田浜(当時の名称は佐須浦)であった。

『八幡愚童訓』によると、10月5日の午後、佐須浦の沖に約900艘の船団出現。既に元から鎌倉幕府へ従属を要求する書簡が複数回届いており、それなりの防備と警戒をしていたものの、あまりの大軍である。大船団来襲の一報はただちに守護代の宗助国の許に届けられ、助国は約80騎ばかりの兵を率いて、夜半佐須浦へと急行した。

翌日の朝、助国は通詞を介して来訪の目的を問うが、いきなり幾つかの船から約1000ばかりの兵が矢を射掛けながら上陸、たちまち戦闘となった。兵数ではるかに劣る助国らは敵に押し込まれ、浜から川沿いを伝って後退するも、数時間後には助国以下全員が討ち死にし全滅した。この事態は助国の郎党であった対馬小太郎と兵衛次郎が伝令となって島を脱出し、博多へ報告されたのである。

この宗助国を主祭神とし、元寇の戦いで討死した将兵を祀ったのが小茂田浜神社である。この神社は助国の後裔で、後に対馬の太守となった宗氏によって代々崇敬され、さらに明治になると外敵から命を賭して国を守った御魂を祀るとして県社に列せられた。以降、元寇勃発の節目となる50年ごとに記念碑の設立や神社の整備がおこなわれている。令和2年(2020年)には750周年を前に宗助国の騎馬像が奉納されている。

なおこの神社とは別に、宗助国の遺骸を葬ったとされる塚が数ヶ所残されている。御首塚・御胴塚・刀塚・手足塚と呼ばれるもので、小茂田浜に注ぐ佐須川を約1km程遡った地所に点在する。おそらく討死の後で遺骸が蹂躙されたため、このような形で葬られたと推測されるが、如何に激しい戦闘がおこなわれたかが想像出来るであろう。

<用語解説>
◆『八幡愚童訓』
鎌倉時代末期に著された書物で、元寇に関する記録、特に対馬・壱岐における戦乱に関する記録としては日本側唯一のものとされる。しかしその内容は八幡神の神威を示すものであり、元寇においても最終的に武士ではなく八幡神の神威によって“神風”が吹いて敵を撃退したこととなっており、後年の神風思想の源流とされる。

◆宗氏と宗助国
宗氏は対馬における少弐氏(対馬守護)の被官で、大宰府在庁官人の惟宗氏の末とされる(自称では平知盛の末裔、あるいは対馬に潜伏した安徳天皇を祖とする)。助国は2代目で、歴史上最初に確認出来る宗氏の当主とされる。宗氏はその後も対馬の守護代として留まるが、室町時代前半には実質上対馬の支配権を握っていた(正式に守護となるのは戦国時代あたり)と考えられる。その後は朝鮮との交易によって地位を確保し、豊臣政権・江戸幕府の時代でも朝鮮との交易や外交を担った。

◆対馬小太郎・兵衛次郎
対馬に元が上陸した日に命を受けて脱出、博多に元来襲の一報を伝えた。その後も元との戦いに従事したとされ、弘安の役(1281年)最後の戦いである鷹島の殲滅戦にも参加し、その戦いで両名とも討死した。現在でも鷹島には討死した地にそれぞれの墓が祀られている。

アクセス:長崎県対馬市厳原町小茂田