専光寺 血槍洗いの手水鉢
【せんこうじ ちやりあらいのちょうずばち】
戦国時代の紀伊国には有力な大名がおらず、中小の領主や大寺院が割拠していた。その中で現在の和歌山市周辺を根城にしていたのが、鉄砲傭兵集団として名を馳せた雑賀衆である。しかし雑賀衆と言っても一枚岩の集団ではなく、近在の5つの地域の地侍からなり、敵対するそれぞれの勢力から加勢を頼まれて参戦するなどもしている。そのような歴史の中で最終的に頭角を現したのが、鈴木重秀(鈴木孫一・雑賀孫市)である。
水運による交易でいち早く鉄砲を採り入れた雑賀衆は、鉄砲を活用した戦術を編み出して戦力を強化することで、近隣大名の抗争に巻き込まれていく。特に織田信長の上洛後からは畿内一帯で勢力争いが激化し、雑賀衆の多くは信長と敵対する三好三人衆に加勢、さらにその流れから石山本願寺の味方となって度々信長軍と交戦することとなる。
雑賀衆が本格的に織田信長と交戦状態に入ったのは、天正4年(1576年)のこと。石山本願寺を包囲した織田の軍勢に対して鉄砲で攻撃を加え(この時の鉄砲部隊の大将が鈴木孫一)、織田信長自身も足に傷を負ったと『信長公記』に記されるほどの激戦を制した。さらに第一次木津川口の戦いと呼ばれる海戦で、毛利の村上水軍と共同して織田方の九鬼水軍を完膚なきまで叩いた。これらの戦いから、織田軍は石山本願寺との戦いを制するためにまず雑賀衆を壊滅させることを優先、雑賀衆の5つの集団のうち本願寺門徒ではない3つを味方につけると、翌年雑賀の地に10万の兵を送り込んできたのである。雑賀衆は約2000ほどの兵であったが、様々な罠や鉄砲による徹底抗戦で1ヶ月持ちこたえ、最終的に和議に及ぶ。この時に奮戦したのが鈴木孫一であるとされる。
本願寺鷺森別院の近くにある専光寺には、この時の鈴木孫一の活躍を伝える遺物が残る。境内の一角に置かれた、すり鉢型の手水鉢は、孫一が血の付いた槍を洗ったとされるものと伝わる。鉄砲隊を指揮する大将が自ら槍を振るっていたことから、この戦いが如何に激しいものであったが分かるだろう。ちなみに専光寺と鈴木孫一との関係であるが、この寺の2代住職である順勝が孫一の兄にあたる人物であり、前年の石山本願寺の戦いで負傷しながらも戦功を立てたことからこの寺の住職に抜擢されたという経緯がある。手水鉢には特に案内の札もないが、謎多き戦国武将の数少ない遺物としてしっかりと残されている。

<用語解説>
◆雑賀衆
紀ノ川河口部の、海沿いにある雑賀荘・十ヶ郷と内陸部にある中郷・社家郷・南郷の5つの地域からなる。海沿いの地域は漁業や海運業を営み、熊野水軍の末裔も多く、いち早く鉄砲を採り入れた戦術を用いたとされる。
石山合戦では織田信長と敵対した雑賀衆であるが、直接の交戦を経て和睦後は織田方に味方し、雑賀衆の実権を握った鈴木孫一がその中心となった。しかし本能寺の変が起こると、孫一は雑賀の里から逃亡。その後は政権を引き継いだ豊臣秀吉とも敵対し、秀吉の紀州征伐(太田城の攻防)で完全制圧された。
◆石山本願寺
天文2年(1533年)に一向宗(浄土真宗)の本山となり、全国の一向一揆の指導し、畿内の諸大名とも勢力争いを繰り返す。元亀元年(1570年)に織田信長の要求を拒否して全面戦争に突入、いわゆる“石山合戦”が始まる。以降11年にわたって戦闘と和睦を繰り返しながら対立するが、天正8年(1580年)に和議が成立。宗主の顕如は、紀伊の雑賀にあった鷺森に退去して、石山本願寺を織田方に明け渡すことになった。石山本願寺はその後火災で焼失(最後まで抵抗した、顕如の長男・教如の退去直後であることから、意図的な放火の説がある)、その跡地に豊臣秀吉が大阪城を築城する。
◆鈴木孫一重秀
生没年不明。鉄砲の名手として雑賀衆を指揮し、その戦績がいくつか残る。織田方と和睦の後はその勢力と与し、雑賀衆内の反織田方勢力を抑える。しかし本能寺の変直後に逃亡(岸和田城へ退避)して雑賀を離れ、その後は豊臣秀吉の家臣となり、紀州太田城の攻防時には豊臣方の使者として交渉に当たるも、それ以降の記録は残っていない。
関ヶ原の戦いで西軍に属し、伏見城の戦いで城将・鳥居元忠を討ち取った鈴木重朝は、重秀の甥とも、あるいは重秀本人であるとされる。そして重朝自身は浪人後徳川家に仕え、最終的に水戸徳川家の重臣となっている。また重朝の子・重次は水戸藩において“雑賀孫市”と称しており、複数の“雑賀孫市(孫一)”が歴史上存在している。
◆本願寺鷺森別院
本願寺派の別院(住職は本願寺派門主が兼任)。天正8年(1580年)に浄土真宗宗主・顕如が石山本願寺から退去し、約3年間鷺ノ森本願寺として布教の中心地となる。しかし天正13年(1585年)の豊臣秀吉の紀州征伐で荒廃。江戸時代になって再興した。
アクセス:和歌山県和歌山市専光寺門前丁