陣ヶ岡/蜂神社

【じんがおか/はちじんじゃ】

陣ヶ岡は標高136m、南北になだらかな丘陵である。周囲には他の高台などはなく、この陣ヶ岡だけが独立している。その地形故に、この地は虚実取り混ぜさまざまな戦いの場面で何度も攻め手が陣を敷いている。特に古代から中世にかけては錚々たる武人が名を連ねており、戦国時代末期までその絢爛たる歴史を織りなしている。現在、当地に掲げられている案内板にあるものを並べてみると

蝦夷討伐のため、日本武尊が宿営。この地で妻の美夜受比売(宮簀姫)が産気付いて皇子が生まれるが、結局3日目に亡くなったので墓を築いた。これが当地にある王子森古墳とされる。
斉明天皇5年(659年)、蝦夷討伐に赴いた阿倍比羅夫が宿営。
天応元年(781年)、蝦夷討伐に赴いた道嶋嶋足が宿営。
延暦20年(801年)より蝦夷征討に赴いた坂上田村麻呂が宿営。
康平5年(1062年)、前九年の役の終戦時に、源頼義・義家親子が本陣として宿営。その後、後三年の役の時期にかけて数々の遺構を残す。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏討伐のために出陣した源頼朝が本陣として宿営。
天正16年(1588年)、南部信直が高水寺城の斯波氏を攻める時に本陣とした。
天正19年(1591年)、九戸政実の乱を鎮圧するために出陣した蒲生氏郷が宿営したとされる。

これで多くの武将が関係する地であるが、とりわけ深いゆかりのあるのが源頼義・義家父子である。まずこの地を“陣ヶ岡”と呼ぶようになったのは、この父子が本陣を構えたことから始まるとされる。この地に野営した折、月明かりに照らされた源氏の“日月の旗”が金色に輝いて堤に映えたのを見て、源義家が勝利の吉兆として大いに士気を揚げた故事にちなんで造営された「月の輪形」がある。さらに源義家が大江匡房から伝授された“八門遁甲”の兵法を実践して極めたとされる陣形の跡とされるものが残されている。

そして頼義・義家がこの地に建立したのが、陣ヶ岡の中心に置かれた蜂神社である。これは大和の春日大社にある三日月堂より勧請されたと伝えられている。その一方で、敵の安倍貞任を攻略する時に藪の中の蜂の大群に悩まされていた義家が、逆に夜のうちに蜂の巣を袋に詰めて、翌朝それを敵陣に投げ込んで敵を混乱させて散々に討ち果たしたため、蜂を祀る神社を建立したという伝説も残されている。

前九年の役の終戦時にこの地が本陣であったことから、この地には気味の悪いものも残されている。戦いに勝利した頼義・義家父子はここで首実検をおこなった。その時に敵の首領である安倍貞任の首級を晒し置いた場所が今もなお残されている。しかもこの場所は、義家の直系の子孫である源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした際に、その最後の当主である藤原泰衡の首級を晒すためにも使われているのである(陣ヶ岡のそばにはこの泰衡の首を洗った井戸も残されている)。

現在は史跡公園として管理されているが、とにかくあらゆる時代の様々な遺構が紹介されており、その賑やかさは並みではない。

<用語解説>
◆日本武尊
第12代景行天皇の次男。父の命により西の熊襲征伐を終えると、続けて東の蝦夷征伐に向かう。『日本書紀』では陸奥まで遠征をおこなったとされる(『古事記』では筑波までとされる)。陣ヶ岡の伝承は、東征の最北地点と目されている。なおこの地で皇子を生んだとされる宮簀姫は、東征を始めるに当たって尾張国で結婚の約束をし、東征を終えた後に夫婦となっており、実際には東征に随行していないことになっている。

◆阿倍比羅夫
生没年不詳。『日本書紀』によると、斉明天皇4年(658年)に蝦夷地に遠征。この時戦利品としてヒグマを生け捕りにしているため、北海道まで遠征したとも考えられる。

◆道嶋嶋足
?-783。蝦夷出身の豪族で、平城京の貴族(正四位上・近衛中将)となった唯一の人物。各地の国司を経て、神護景雲3年(769年)に陸奥国大国造。宝亀元年(770年)には朝廷の命に背いて逃散した蝦夷の確認のために蝦夷地を巡察している。実際の軍事行動は起こしていない。

◆坂上田村麻呂
758-811。早くから蝦夷征討に従軍し、延暦20年(801年)に征夷大将軍として征討に成功する。胆沢城・志波城を造営しており、陣ヶ岡周辺にまで軍を進めている。

◆源頼義
988-1075。永承6年(1051年)より陸奥守。当初は奥州の豪族・安倍氏とは友好的であったが、天喜4年(1056年)から戦闘状態となる。康平5年(1062年)に出羽の豪族・清原氏の協力を得て、乱を鎮め、陸奥守の任を終える。

◆源義家
1039-1106。源頼義の嫡男。父と共に“前九年の役”に参戦し、清原氏と共に安倍氏を滅ぼす。後の永保3年(1081年)に陸奥守に就任すると、清原氏の内紛に介入する(後三年の役)。

◆安倍貞任
1019?-1062。奥州の豪族。朝廷と敵対して反旗を翻す(前九年の役)。厨川の戦いで深手を負って捕らえられ、源頼義の面前で絶命したとされる。その首級は八寸釘で打ちつけられて晒されたと言われる。

◆源頼朝
1147-1199。河内源氏7代棟梁(義家が3代棟梁)。征夷大将軍となり鎌倉に幕府を樹立する。文治5年(1189年)に源義経捕縛を理由に奥州藤原氏と交戦して滅ぼす。南北朝時代後期に著された『源威集』では、頼朝はこの奥州征討を前九年の役を再現するものとして捉えているとされる。実際、討ち取った藤原泰衡の首級への扱いはまさに安倍貞任と同じであり、陣ヶ岡の同じ場所に八寸釘で首級を打ちつけて晒している。

◆南部信直
1546-1599。南部氏は、源義家の弟・新羅三郎義光を祖とし、源頼朝の奥州征討での功績により領地を得た南部光行を初代とする。信直は南部氏24代。奥州斯波氏を滅ぼして領土を広げるが、小田原参陣で豊臣秀吉に臣従する。

◆蒲生氏郷
1556-1599。蒲生氏の祖は、平将門を討ち果たした藤原秀郷とされる。織田信長よりその才を見込まれ、次女を娶る。豊臣政権下でも頭角を現し、小田原攻めの後、会津91万石を領する大大名となる。奥州仕置後の東北地方での騒乱を押さえる。

◆春日大社の三日月堂
源頼義による蜂神社の勧請元とされるが、実際には存在しない。しかし春日大社に近い東大寺には三月堂(法華堂)があり、その堂内には秘仏の執金剛神像には蜂にまつわる伝説がある。この像の髷の元結いの紐が一部欠けているが、それは平将門調伏の折に蜂に化身して東へ行き、将門を刺して乱を平定したと言われている。朝廷に反抗する東国の首魁を討ち果たすのに蜂が一役買うという点で一致を見る。

アクセス:岩手県紫波郡紫波町宮手陣ヶ岡