鬼室神社

【きしつじんじゃ】

江戸時代までは「西の宮」と呼ばれていた神社であるが、その境内から“鬼室集斯(きしつしゅうし)墓”と彫られた八角柱が出土したことから、現在の名前に変えられたという。

鬼室集斯は百済からの渡来人である。来日したのは、天智天皇2年(663年)。白村江の戦いで倭が唐・新羅連合軍に大敗した後であるとされる。百済滅亡後に再興を期して立ち上がった鬼室福信の子あるいは近親と言われ、百済国内においては最高位の官僚であった。この時日本へ亡命した百済人は数百名に及び、『日本書紀』によると、彼らは後に天智天皇の命によって近江の蒲生郡に移住している。発見された墓碑には朱鳥3年(688年)の元号があるので、20年以上もの長きにわたって日本で亡命生活を送っていたことになる。その間、学職頭という地位にも就いているが、滅亡した国に対する想いはどのようなものであったかは記録にはない。

鬼室集斯の墓は、神社本殿の裏側に今も安置されている。

<用語解説>
◆白村江の戦い
660年に新羅によって滅ぼされた百済であるが、その直後から再興運動が盛んとなり、親交のあった日本へ援助の申し入れがあった。中大兄皇子(天智天皇)は申し出を受け入れて663年に援軍を送るが、大敗する。これによって百済再興運動は終息し、また日本も朝鮮半島から撤退することになる。

◆鬼室福信
百済の王族。百済滅亡後に旧臣を集めて抵抗運動を繰り広げる。日本へも援助を申し入れ、当時日本に滞在していた王子の帰国と、軍事援助を実現させる。しかし、王子から謀反の疑いを掛けられて殺される。福信の死によって再興運動への求心力が一気に落ち、直後の白村江の戦いの惨敗につながったともされる。

アクセス:滋賀県蒲生郡日野町小野