おいらん堂

【おいらんどう】

国道411号線から奥秋のキャンプ場へ行く途中の集落に、おいらん堂はある。昭和63年(1988年)に再建された簡素なお堂であるが、中には位牌や供養のための木彫りの人形が置かれており、その供養の歴史の長さを物語っている。

おいらん堂の名前の由来は、このお堂から西へ丹波山川を遡ること約9kmの地点にある「おいらん淵」での事件である。甲州を武田氏が支配していた頃、この淵の近くには黒川千軒と呼ばれるほどの金山があった。しかし武田勝頼の代になり、織田信長の攻勢によってかつての勢いをなくした武田家は、この黒川金山を閉山してその存在を消そうとした。そしてその秘密が漏れないよう、金山で働く工夫を相手にしていた遊女を皆殺しにする計画を立てた。渓谷に宴台を設け、その舞台で遊女に舞を舞わせている最中に、台を支えていた藤つるを切り落として遊女全員(55人と言われている)を淵に沈めてしまったのである。

おいらん淵に沈められた遊女の遺体の多くが、下流の奥秋の地に打ち上げられたという。哀れに思った村人はその遺体を懇ろに葬り、それがおいらん堂となったのである。

<用語解説>
◆おいらん淵
かつては国道411号線に面した場所に供養の碑が建てられていたが(実際の淵は、そこからさらに山奥に入ったところとされる)、道路整備によるバイパス化によって全面立入禁止区域となってしまった。

◆黒川金山
戦国時代には採掘されていたとされる金山。武田氏が流通させた甲州金の出所と考えられている。武田氏滅亡後も徳川氏によって経営され、佐渡と並ぶ重要な金鉱となった。元禄時代には金が枯渇し、閉山となった。

◆武田勝頼
1546-1582。武田家最後の当主。父・信玄の跡を継ぐが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田信長に大敗し、以後その侵略を受けて、最期は天目山にて自刃。おいらん淵の事件は、長篠の戦いの後の出来事であるとされている。

アクセス:山梨県北都留郡丹波山村奥秋