教伝地獄

【きょうでんじごく】

那須の殺生石へ至る遊歩道の途中にずらっと並ぶ千体地蔵、そしてその端辺りに石積みされて置かれている地蔵が“教伝地蔵”と呼ばれている。この地蔵付近が教伝地獄とされる。

後醍醐天皇の御代の頃、奥州白河の五箇村に蓮華寺という寺があった。そこに預けられていたのが教伝という小僧。相当な悪童であったが、やがて28才の時にこの寺を継いで住職となり母親と共に暮らすようになった。

建武3年(1336年)のこと。教伝は友人らと那須の温泉へ湯治に行くこととなった。ところがその日の朝、旅支度も出来ていないにもかかわらず、母親が朝飯を勧めたのに腹を立て、膳を足蹴にしてそのまま出立してしまった。

数日ほど逗留していた教伝らは、殺生石の近くを物見遊山に訪れた。出かける時には晴れ渡っていたが、突然荒天となると雷鳴が轟き、いきなり地面が割れて熱湯が吹き上げてきたのである。友人らは慌てて逃げ出したが、教伝だけは一歩も動けず、そこに留まったままである。そして友人らに向かって「俺はここに来る前、母の作った朝飯を足蹴にした。その天罰を受けて俺は火の海に落ちていくのだ」と叫んだ。友人らは悶絶する教伝を何とか助け上げたが、既に時遅く、腰から下が炭のようになって死んでしまっていた。それからこの辺りは泥流が沸々と湧き上がり、さながら地獄の様相であったという。

この教伝の話には別伝がある。寛文元年(1661年)に刊行された『因果物語』上巻十三話「生きながら地獄に落つる事」では、教伝は那須の人とあり、薪を母と共に拾いに行った時に飯の支度が遅れたことに腹を立てて母を蹴り倒し、その帰りに天罰に遭ってしまう。友人が助けようとしたがそのまま地獄に呑み込まれて死んだとされる。またその場へ行って「教伝甲斐なし」と言うと、たちどころに熱湯が湧き出ると記されている。

この教伝地獄はその後の山津波などで埋められてしまい見ることが出来なくなっていたが、享保5年(1720年)になって有志がかつての地獄のあったとされる場所に地蔵を建立し、供養と共に親不孝の戒めを示すものとした(現在の地蔵は2代目に当たるという)。

<用語解説>
◆『因果物語』
鈴木正三が収集した怪異譚をその死後に編集して寛文元年(1661年)に刊行した仏教説話本。鈴木の収集の目的は、法話を語る際の題材とするためであったとされる。しかし多くの作品が脚色され仮名草紙として無断で売り出されたため(この流れが浅井了意らの怪談本の系譜に直結する)、正本として弟子によって片仮名本として世に出たという経緯を持つ。

アクセス:栃木県那須郡那須町湯本