安寿と厨子王の供養塔

【あんじゅとずしおうのくようとう】

現在の上越市はかつて“直江津”と呼ばれ、越後国の国府が置かれた港町である。この地が、説経節で有名な『山椒大夫』の最初の悲劇の舞台となる。

無実の罪で筑紫へ流された夫の岩城判官を追って信太郡(福島県)を離れた夫人は、安寿と厨子王の二人の子供を伴い、姥竹と共に直江津にたどり着いた。その夜、応化の橋の下で一夜を過ごそうとした4人であったが、そこに通りがかった人買いの山岡太夫の甘言に乗って屋敷に泊めてもらい、さらに翌朝「親不知子不知があるから陸路ではなく、海路で京へ上るとよい」と小舟に乗せられる。しかしそれは罠であり、母と姥竹を乗せた舟は佐渡へ、安寿と厨子王を乗せた船は丹後へ、それぞれ人買いに売られ離ればなれになるのである。悲憤した姥竹は舟から身を投げて死ぬが、憐れに思った土地の者が塔を建てて供養したという。さらに丹後の山椒太夫に売られた安寿は責め殺されたため、姥竹の塔のそばに供養塔が並べられた。そして山椒太夫の許から逃げ、後に出世して佐渡の母を助け出した厨子王が、この直江津に足を運んだことから、土地の者はさらにこの供養塔を大切にしたとされる。(現在供養塔は3基あるが、伝承から考えると、左から厨子王・安寿・姥竹のものと推測するのが妥当かもしれない)

昭和62年(1987年)に関川改修のために移設された供養塔は、現在は琴平神社の一角にある。応化の橋も今はなく、この供養塔は直江津にある“山椒太夫”の数少ない遺跡となっている。

<用語解説>
◆『山椒大夫』
無実の罪で筑紫に流された陸奥国の太守・岩城判官を追って、妻と二人の子供(安寿と厨子王)が旅に出るが、途中の直江津で人買いに騙され、母は佐渡へ、子供達は丹後の山椒大夫に売られる。二人は下僕となってこき使われ虐め抜かれ、遂に安寿は自らの命を絶って厨子王を逃がす。国分寺の住職の助けもあって京へ行った厨子王はやがて帝の目にとまり、父の罪を赦され、さらに太守となる。そして山椒大夫らを成敗し、佐渡へ行って母と再会する。

◆応化の橋
現在の直江津橋の付近に架けられていた橋。上杉謙信がこの橋の通行料を取ったと記録されており、その後、高田藩となった時に松平忠輝の命によって破却された。

アクセス:新潟県上越市中央3丁目